2009年04月01日
♪:同居記録:185
☆2009.4.1。「あんチャマ」、と母が私に言う。
「お疲れでしょうに。ありがとう、あんチャマ」、と母が言いました。
「私がどうかあると思って心配してござると?」、と。
「眠いだけで私は大丈夫ですて。ご心配なさらんで」、と母が言うんです。母が育った長崎の歌が浦一帯、それに母が長期間の湯治生活をしていた山口県の俵山温泉で覚えたどこかの地方の方言でしょうか?。
昨夜のトイレタイムでの母の言葉ですが、最近の夜間の母はよくこうした言葉を使うようになっていて、昨夜は私の事をあんチャマ(兄さん)と勘違いしていました。多分、イサム兄さんの事でしょう。
「うん、大丈夫とは思うけど夜の寝起きは誰でもボーッとなっているからさ」、と私。
「・・そうですね。眠い時のオシッコは危ないです」、と母。
「でも、私の身体はいつの間にこんなになったんでしょうね。あんチャマは元気だというのに私だけがどうしてこうあるんでしょうかネ」、と母。
「あんチャマ、あんチャマはオシッコはいいとですか?」、と母。
「先にして貰ってもよございますとに・・」、と母が・・。
「うん、俺は向こうでしてくるからさ。オシッコが終わったら座ったままで待っといてネ」、と私は急ぎ足でもう一つの風呂場横のトイレへ急ぎました。認知があるというのに、それでいてここまで兄に気を遣う母。余りにも現実を知らない、余りにも悲しい母の姿に久し振りに泣いてしまいました。
この、母が私の事をあんチャマ(兄さん)と表現した言い方。最近はよくあるんです。人生って、それだけで哲学。考え込ませる事が多いものです。それにしても母の兄である河内勇さん。イサムあんチャマという人は母にとっては偉大な存在だったようです。
♪:ホッホ
「お疲れでしょうに。ありがとう、あんチャマ」、と母が言いました。
「私がどうかあると思って心配してござると?」、と。
「眠いだけで私は大丈夫ですて。ご心配なさらんで」、と母が言うんです。母が育った長崎の歌が浦一帯、それに母が長期間の湯治生活をしていた山口県の俵山温泉で覚えたどこかの地方の方言でしょうか?。
昨夜のトイレタイムでの母の言葉ですが、最近の夜間の母はよくこうした言葉を使うようになっていて、昨夜は私の事をあんチャマ(兄さん)と勘違いしていました。多分、イサム兄さんの事でしょう。
「うん、大丈夫とは思うけど夜の寝起きは誰でもボーッとなっているからさ」、と私。
「・・そうですね。眠い時のオシッコは危ないです」、と母。
「でも、私の身体はいつの間にこんなになったんでしょうね。あんチャマは元気だというのに私だけがどうしてこうあるんでしょうかネ」、と母。
「あんチャマ、あんチャマはオシッコはいいとですか?」、と母。
「先にして貰ってもよございますとに・・」、と母が・・。
「うん、俺は向こうでしてくるからさ。オシッコが終わったら座ったままで待っといてネ」、と私は急ぎ足でもう一つの風呂場横のトイレへ急ぎました。認知があるというのに、それでいてここまで兄に気を遣う母。余りにも現実を知らない、余りにも悲しい母の姿に久し振りに泣いてしまいました。
この、母が私の事をあんチャマ(兄さん)と表現した言い方。最近はよくあるんです。人生って、それだけで哲学。考え込ませる事が多いものです。それにしても母の兄である河内勇さん。イサムあんチャマという人は母にとっては偉大な存在だったようです。
♪:ホッホ
2009年04月02日
♪:同居記録:186
☆2009.4.2。母の排尿障害
この数週間の母ですが、どうも排尿障害だけではない状態がみられます。次回の受診日で嫁の方からこの件で質問して貰おうと思っています。
具体的に言うと、「オシッコ」を催した時には既に中敷にはタップリと出ているのが原則。そして、便座に座らせた際にはなかなか出ない・・、それはそうでしょう。もう、出した後ですからね。ただ、それだけではないんです。
オシッコを催した際には中敷に出てしまう前の事もあるんです。つまり、正常な排尿感の自覚です。そこで、トイレの便座に座らせたら排尿はあるんです。排尿はあるのですが本人には排尿の自覚がないんです。排尿感が分からないのです。
だから、オシッコが出ているのに拭こうとするんです。
「ちょっと、ちょっと。まだ、オシッコが出ているのに・・、何故、拭くのよ」、と言うと、「もう、終わったはずだよ」、と言います。しかし、オシッコが出ている最中に拭くから母の手にはオシッコがビチョビチョと・・。
「あれれっ」、と母。それでようやく気づく始末・・。
「オシッコが出ている感覚がないの?」、と聞くと。
「うん、分からん」、と言います。
「じゃ、何で判断するの?」、と聞くと。
「便器に響く音」、と言うんです。
母の母。つまり、河内ライは重度の腎臓疾患で亡くなっている故、私は母の排尿状況、足の腫れをいつも気にしています。そこで気になっているのが24時間での排尿回数の増加と排尿感の消失なんです。排尿量もそうです。
異常な時には1時間に4~5回と尿意がありながら、殆ど排尿はありません。・かと思うと、一晩にコンスタントに3回~4回と排尿がありながら、朝方には着衣を通り越してベッドシーツにまで湿潤している日があります。気になる処です。
☆私は高橋シモベー?。
今日は15:00にはデイから帰宅。現在は16:10。この70分間に母は既に2回の尿意がありました。量は少な目です。この2回目に、「うんこを出す準備をしようか」、と母に座薬の排便促進剤の使用を勧めました。便秘が始まると血圧が上がるし、食欲も落ちるし、大変ですからね。
「便をしたくなった時に出なくて汗が出る程苦しむより、普段からその半分でも、せめて出る分だけでも出しといたらいいよ」、という私の考えで始めた排便促進剤の使用です。
16:20に2個の排便促進剤を使用。横にならせて様子を見ていると20分後の16:40に排便感があって便器に座りました。
「尚宏、あんたは私の身体の事をよく心配してくれてあり難いと思うよ」、と母。
「はいはい。気は短いけど俺はいい人さ。誰がこんな風に育てたんだろうね」、と私。
「ほほ、そういうのを・ほら、何と言ったかね。人に一生懸命尽くす人間をさ・・」、と母。
「・・うん?。そんな人の事をなんと言うかって」、と私。
「そうさ。ほら、お殿様に仕える・・、何というのかね。あ~、悔しい。ホラホラっ」、と苛つく母。
最近の母は自分の言いたい事を表現する言葉が見つからないと周りが悪いみたいにイライラするんです。
「何さ。僕(シモベ)って言いたいんだろうよ」、と私が言うと。
「ホホ、そうそう。あんたはさ。明日から高橋シモベーと名前を変えなさいよ」、と母。
これ、普通だと怒りますよ。
♪:立田山自然公園にて
この数週間の母ですが、どうも排尿障害だけではない状態がみられます。次回の受診日で嫁の方からこの件で質問して貰おうと思っています。
具体的に言うと、「オシッコ」を催した時には既に中敷にはタップリと出ているのが原則。そして、便座に座らせた際にはなかなか出ない・・、それはそうでしょう。もう、出した後ですからね。ただ、それだけではないんです。
オシッコを催した際には中敷に出てしまう前の事もあるんです。つまり、正常な排尿感の自覚です。そこで、トイレの便座に座らせたら排尿はあるんです。排尿はあるのですが本人には排尿の自覚がないんです。排尿感が分からないのです。
だから、オシッコが出ているのに拭こうとするんです。
「ちょっと、ちょっと。まだ、オシッコが出ているのに・・、何故、拭くのよ」、と言うと、「もう、終わったはずだよ」、と言います。しかし、オシッコが出ている最中に拭くから母の手にはオシッコがビチョビチョと・・。
「あれれっ」、と母。それでようやく気づく始末・・。
「オシッコが出ている感覚がないの?」、と聞くと。
「うん、分からん」、と言います。
「じゃ、何で判断するの?」、と聞くと。
「便器に響く音」、と言うんです。
母の母。つまり、河内ライは重度の腎臓疾患で亡くなっている故、私は母の排尿状況、足の腫れをいつも気にしています。そこで気になっているのが24時間での排尿回数の増加と排尿感の消失なんです。排尿量もそうです。
異常な時には1時間に4~5回と尿意がありながら、殆ど排尿はありません。・かと思うと、一晩にコンスタントに3回~4回と排尿がありながら、朝方には着衣を通り越してベッドシーツにまで湿潤している日があります。気になる処です。
☆私は高橋シモベー?。
今日は15:00にはデイから帰宅。現在は16:10。この70分間に母は既に2回の尿意がありました。量は少な目です。この2回目に、「うんこを出す準備をしようか」、と母に座薬の排便促進剤の使用を勧めました。便秘が始まると血圧が上がるし、食欲も落ちるし、大変ですからね。
「便をしたくなった時に出なくて汗が出る程苦しむより、普段からその半分でも、せめて出る分だけでも出しといたらいいよ」、という私の考えで始めた排便促進剤の使用です。
16:20に2個の排便促進剤を使用。横にならせて様子を見ていると20分後の16:40に排便感があって便器に座りました。
「尚宏、あんたは私の身体の事をよく心配してくれてあり難いと思うよ」、と母。
「はいはい。気は短いけど俺はいい人さ。誰がこんな風に育てたんだろうね」、と私。
「ほほ、そういうのを・ほら、何と言ったかね。人に一生懸命尽くす人間をさ・・」、と母。
「・・うん?。そんな人の事をなんと言うかって」、と私。
「そうさ。ほら、お殿様に仕える・・、何というのかね。あ~、悔しい。ホラホラっ」、と苛つく母。
最近の母は自分の言いたい事を表現する言葉が見つからないと周りが悪いみたいにイライラするんです。
「何さ。僕(シモベ)って言いたいんだろうよ」、と私が言うと。
「ホホ、そうそう。あんたはさ。明日から高橋シモベーと名前を変えなさいよ」、と母。
これ、普通だと怒りますよ。
♪:立田山自然公園にて
2009年04月03日
♪:同居記録:187
☆2009.4.3。この熊本。今は枝垂桜の時期になりました。
昨日のデイからの帰路。豊肥線沿いにある東海大学近くのコスモス薬局でサントリー白角ジャンボ4リットル入りを買ったついでに傍の宇留毛神社横を通り、立田自然公園の中の桜を楽しみ、清水万石方面へ抜けて帰宅しました。枝垂桜が綺麗でしたねー。ソメイヨシノよりも小さな花を枝一杯につけていました。
この数ヶ月の間に立田山自然公園一帯が木の柵で囲まれ、簡単に車を止めて桜でも・・、という訳にはいかなくなっているんです。あれも戻し公共投資の一つなんでしょうか。どうして、あんなマネをするんでしょうか。
「ここからこっちは公園じゃ」、みたいな・・。もっと、自然な公園の設計管理ができないものかと思います。目立たない場所に浄水装置を付けるとかさ・・。
この熊本では県でも市でも1億数千万円分の公費購入物の自宅への持ち帰り私物化という公金横領同等の事件が起きたばかり・。自然は美しいのに役人の心は汚れているようです。
「水清き所に魚住まず」、とも言いますね。汚いことをしたい奴ほど汚い水の中で暮らしたいのでしょう。
さて、この美しい立田自然公園なんですが、幾つかの失望点の一つに貯水池の水の汚濁があるんです。建前だけを言えば、公園一帯に降り注ぐ雨が市内に一気に流れ出さないようにと、山一杯に生える植物を自然なままで好き放題に茂らせているのですが、この水を人口池に流し込んでは貯水していていて、この水がとても汚いんです。この数年の雨量が少ないから流入も少なく、流出もないから酸素不足で水は腐る一方・・。柵を張り巡らす予算があるのなら循環型の浄水装置でも付けた方が余程市民の為になるのですが・・ネ。汚職をした県・市の職員に向こう8年間ほど清掃でもして暮らして貰いましょうよ。
★今朝の母です。
「あの・さ、尚宏。ここはどこ?」、とデイへの車中で母がよく聞いてきます。今朝もそうでした。
「どこって、熊本さ」、と私。
「そりゃ、そうだけど。熊本はどこかってさ」、と母。
「だから、熊本って肥後さ」、と私。
「はァ?、・・・肥後って何の事さ」、と母。
「ホホ、♪熊本さ。熊本どこさ肥後さ♪肥後どこさ、の熊本さ」、と私。
「あはは、そう言えばそんな歌があったね。ホホ」、と母。
「で、熊本はどこかって聞いとるとよ!」、と母が怒り出しました。
「熊本は清水町を大江方面に向かっとるところさ」、と私。
「ふーん・・、ありゃ、鳥が2羽・・ホホン・」、と。一体、何を聞きたかったのか、母の目はもう別なモノを追っています。
「あれは何きゃ?」、と母が電柱から突き出た電線受けのようなモノに羽根を休めた鳩を指差しています。
「おォ、あれは普通の鳩さ」、と私。
「違うよ。鳩があんなに黒いもんか」、と母。
「あれは鳩さ。おテントーさんが後ろから鳩を射しているから逆光になって黒く見えるだけさ」、と私。
「あれっ、お天道さんて悪い事をするんだね。鳩を後ろから何かで刺すのかい。そのギャッポウというのは鉄砲のようなものだろうか?。ヤリのようなモノだろうか?」、と母。
「ギャッポウじゃないさ。ギャッコウさ、ギャッコウ」、と私。
「はァ?、・・ジャッコーってね。ジャッコーちゃ何だろうね」、と・・。
「ジャッコーじゃないってばさ。ギャッコーって言うだろうよ!。太陽の光が逆に背中から当たる状態をさ」、と私。
「あれ、太陽って東から上がって西に沈むもんさ。逆から上がったりはせんよ」、と母。
「あァ、疲れる」、と私。
「エーッ、今度は突かれるってね。どこどこ・・何処ね。突かれている黒い鳩はさ」、と母。
「あァ~っ、分かったさ。もう、分った。あれは鳩じゃなくて黒いカラスさ。あれは黒いカラス」、と私。
「カラスだろう。そう思とったさ」、と母。
自分の耳はよく聴こえない癖に質問攻めの母。返答をすればさっぱり聴こえないと言う・・。
明日の4月4日。姉が長崎からやって来ます。その姉と一緒に佐世保に住んでいる姉の長女の信子が子供2人を連れて来熊します。
♪:命
昨日のデイからの帰路。豊肥線沿いにある東海大学近くのコスモス薬局でサントリー白角ジャンボ4リットル入りを買ったついでに傍の宇留毛神社横を通り、立田自然公園の中の桜を楽しみ、清水万石方面へ抜けて帰宅しました。枝垂桜が綺麗でしたねー。ソメイヨシノよりも小さな花を枝一杯につけていました。
この数ヶ月の間に立田山自然公園一帯が木の柵で囲まれ、簡単に車を止めて桜でも・・、という訳にはいかなくなっているんです。あれも戻し公共投資の一つなんでしょうか。どうして、あんなマネをするんでしょうか。
「ここからこっちは公園じゃ」、みたいな・・。もっと、自然な公園の設計管理ができないものかと思います。目立たない場所に浄水装置を付けるとかさ・・。
この熊本では県でも市でも1億数千万円分の公費購入物の自宅への持ち帰り私物化という公金横領同等の事件が起きたばかり・。自然は美しいのに役人の心は汚れているようです。
「水清き所に魚住まず」、とも言いますね。汚いことをしたい奴ほど汚い水の中で暮らしたいのでしょう。
さて、この美しい立田自然公園なんですが、幾つかの失望点の一つに貯水池の水の汚濁があるんです。建前だけを言えば、公園一帯に降り注ぐ雨が市内に一気に流れ出さないようにと、山一杯に生える植物を自然なままで好き放題に茂らせているのですが、この水を人口池に流し込んでは貯水していていて、この水がとても汚いんです。この数年の雨量が少ないから流入も少なく、流出もないから酸素不足で水は腐る一方・・。柵を張り巡らす予算があるのなら循環型の浄水装置でも付けた方が余程市民の為になるのですが・・ネ。汚職をした県・市の職員に向こう8年間ほど清掃でもして暮らして貰いましょうよ。
★今朝の母です。
「あの・さ、尚宏。ここはどこ?」、とデイへの車中で母がよく聞いてきます。今朝もそうでした。
「どこって、熊本さ」、と私。
「そりゃ、そうだけど。熊本はどこかってさ」、と母。
「だから、熊本って肥後さ」、と私。
「はァ?、・・・肥後って何の事さ」、と母。
「ホホ、♪熊本さ。熊本どこさ肥後さ♪肥後どこさ、の熊本さ」、と私。
「あはは、そう言えばそんな歌があったね。ホホ」、と母。
「で、熊本はどこかって聞いとるとよ!」、と母が怒り出しました。
「熊本は清水町を大江方面に向かっとるところさ」、と私。
「ふーん・・、ありゃ、鳥が2羽・・ホホン・」、と。一体、何を聞きたかったのか、母の目はもう別なモノを追っています。
「あれは何きゃ?」、と母が電柱から突き出た電線受けのようなモノに羽根を休めた鳩を指差しています。
「おォ、あれは普通の鳩さ」、と私。
「違うよ。鳩があんなに黒いもんか」、と母。
「あれは鳩さ。おテントーさんが後ろから鳩を射しているから逆光になって黒く見えるだけさ」、と私。
「あれっ、お天道さんて悪い事をするんだね。鳩を後ろから何かで刺すのかい。そのギャッポウというのは鉄砲のようなものだろうか?。ヤリのようなモノだろうか?」、と母。
「ギャッポウじゃないさ。ギャッコウさ、ギャッコウ」、と私。
「はァ?、・・ジャッコーってね。ジャッコーちゃ何だろうね」、と・・。
「ジャッコーじゃないってばさ。ギャッコーって言うだろうよ!。太陽の光が逆に背中から当たる状態をさ」、と私。
「あれ、太陽って東から上がって西に沈むもんさ。逆から上がったりはせんよ」、と母。
「あァ、疲れる」、と私。
「エーッ、今度は突かれるってね。どこどこ・・何処ね。突かれている黒い鳩はさ」、と母。
「あァ~っ、分かったさ。もう、分った。あれは鳩じゃなくて黒いカラスさ。あれは黒いカラス」、と私。
「カラスだろう。そう思とったさ」、と母。
自分の耳はよく聴こえない癖に質問攻めの母。返答をすればさっぱり聴こえないと言う・・。
明日の4月4日。姉が長崎からやって来ます。その姉と一緒に佐世保に住んでいる姉の長女の信子が子供2人を連れて来熊します。
♪:命
2009年04月04日
♪:同居記録:188
☆2009.4.4。「私はお前が眩しい」、と母。・・でも。
昨夜の事。3度目のトイレの世話を終えてベッドで横にならせ、掛け布団を掛けている時でした。
「あのね。私はお前が眩しくてさ。目を合わせるのが辛い時があるとよ」、と母が言うんです。
「こうしていつもお世話して貰う度にお礼を言おうと思うんだけど、言おう言おうと思っているうちに何を言うんだったかいつも忘れてさ。私の部屋からお前が出て行く時になって思い出すとよ」、と。
「あァ、言いそびれた。あァ、しまったって、ネ・・思うとさ」、と。
「はい、ありがとうネって、いつも俺に言っとるじゃないね」、と私。
「違うよ。そんなもんじゃないとさ。そのくらいのもんじゃ・・」、と母。
「『寒くないね』、とか『どうもないね』、とか『大丈夫ね』とか、いつも私に言ってくれてさ。私は感謝どころかさ。あんたが眩しくて堪らん時があるとさ」、と母・・が言うんです。
「ごめんネ。私の為に貧乏させて」、と。
この最近、母の部屋以外、暖房機も使わずに冷え冷えとした居間の状態を母が気づいているんです。
「私にはあんたが神々しく見えてさ。あァ、いつまでも世話になるのはいかん事だと思うとさ」、と母。
「何を言っとるね。そんなつまらん事は考えんでいいさ。ただ、頑張ればいいとさ」、とついつい励まし始める私でした。
「こんな息子に誰が育てたんだろうか、とかさ」、「誰の血筋を貰ってこの子はこんなに優しいんだろうかとかね。考えるとよ」、と母。
昨夜の母は普段は言おうと思っていて忘れてしまう事の多い為か、このような感謝の言葉を一気に喋りまくりました・・ね。
文章で再現しようとすれば長い会話のようですが、実際には1分程度の会話です。でも、母の表情はキリッとして、真剣な目の表情がありました。私から掛けて貰った布団で顔を隠すようにして喋っていましたね・・。兎も角、母は普段から思っている事を一気に喋って感謝を伝えたかったようでした。
2006年秋から続けている夜間のトイレの世話・・・。正直言って、疲れ果てています。ここまで長期の睡眠不足が続いてしまうと、「俺はどうにかなる・・」、とよく思います。
車を運転していて、「このまま壁に向かって突っ込んでみようかな」、とかフッと飛んでもない事を考えたりする事があるんです。でも、私の隣には私を信じ切っている無邪気な母がいます・・。そんな事はできません。
俺は強い人間だ、と思っていた私ですが、只の強がりだったような気がしないでもありません。
遠いあの頃の今。ナイフ1本で原生林に分け入っては2ヶ月も暮らせた私。強くなりたい、そして、強く生きたいと思うからこそできた冒険。そこで得た生命力でしたが、ここに来て揺らぎ始めたモノを隠す事はできないようです。母が言った、「お前が眩しい」、という言葉。その言葉の重さに私は潰されそうです。母と暮らして7年目の春。酒の勢いを言い訳に・・、初めて弱音を吐いています。
♪:母に生命を返す時
昨夜の事。3度目のトイレの世話を終えてベッドで横にならせ、掛け布団を掛けている時でした。
「あのね。私はお前が眩しくてさ。目を合わせるのが辛い時があるとよ」、と母が言うんです。
「こうしていつもお世話して貰う度にお礼を言おうと思うんだけど、言おう言おうと思っているうちに何を言うんだったかいつも忘れてさ。私の部屋からお前が出て行く時になって思い出すとよ」、と。
「あァ、言いそびれた。あァ、しまったって、ネ・・思うとさ」、と。
「はい、ありがとうネって、いつも俺に言っとるじゃないね」、と私。
「違うよ。そんなもんじゃないとさ。そのくらいのもんじゃ・・」、と母。
「『寒くないね』、とか『どうもないね』、とか『大丈夫ね』とか、いつも私に言ってくれてさ。私は感謝どころかさ。あんたが眩しくて堪らん時があるとさ」、と母・・が言うんです。
「ごめんネ。私の為に貧乏させて」、と。
この最近、母の部屋以外、暖房機も使わずに冷え冷えとした居間の状態を母が気づいているんです。
「私にはあんたが神々しく見えてさ。あァ、いつまでも世話になるのはいかん事だと思うとさ」、と母。
「何を言っとるね。そんなつまらん事は考えんでいいさ。ただ、頑張ればいいとさ」、とついつい励まし始める私でした。
「こんな息子に誰が育てたんだろうか、とかさ」、「誰の血筋を貰ってこの子はこんなに優しいんだろうかとかね。考えるとよ」、と母。
昨夜の母は普段は言おうと思っていて忘れてしまう事の多い為か、このような感謝の言葉を一気に喋りまくりました・・ね。
文章で再現しようとすれば長い会話のようですが、実際には1分程度の会話です。でも、母の表情はキリッとして、真剣な目の表情がありました。私から掛けて貰った布団で顔を隠すようにして喋っていましたね・・。兎も角、母は普段から思っている事を一気に喋って感謝を伝えたかったようでした。
2006年秋から続けている夜間のトイレの世話・・・。正直言って、疲れ果てています。ここまで長期の睡眠不足が続いてしまうと、「俺はどうにかなる・・」、とよく思います。
車を運転していて、「このまま壁に向かって突っ込んでみようかな」、とかフッと飛んでもない事を考えたりする事があるんです。でも、私の隣には私を信じ切っている無邪気な母がいます・・。そんな事はできません。
俺は強い人間だ、と思っていた私ですが、只の強がりだったような気がしないでもありません。
遠いあの頃の今。ナイフ1本で原生林に分け入っては2ヶ月も暮らせた私。強くなりたい、そして、強く生きたいと思うからこそできた冒険。そこで得た生命力でしたが、ここに来て揺らぎ始めたモノを隠す事はできないようです。母が言った、「お前が眩しい」、という言葉。その言葉の重さに私は潰されそうです。母と暮らして7年目の春。酒の勢いを言い訳に・・、初めて弱音を吐いています。
♪:母に生命を返す時
2009年04月08日
♪:同居記録:189
☆2009.4.6。母と孫・信子の縁の強さ&姪の信子へ。
昨日の4.5、長崎に住む姉夫婦に同行して、今は佐世保に嫁いで既に2人の子供の母になった長女の信子とその子供達が我が家へやって来ました。熊本の肥薩オレンジ鉄道に子供達を乗せたいという事と、その帰路に祖母に会いたいという信子の希望があったのです。この信子と信子の祖母にあたる私の母とは単に祖母と孫という関係以上に縁があるんです。
信子が独身時代に栄養管理士として施設に勤めていた時期、信子は母の住むすくそばにアパートを借り、仕事場からは母の元へ直行しては夕飯は母が作って待っているという仲の良さでした。信子はここでの暮らしをとても覚えていて、「お婆ちゃんはとても料理の上手な人だった」、と言います。
もう一つの縁。それは、母が長崎で姉夫婦との同居が約3ヶ月目に入った頃、この信子が最初の子供を出産するという理由で長崎へ帰郷することになり、母が熊本の私の家へ移り住む切っ掛けを作った縁です。
今回の信子とツヤさんとの会話。少なかったですね。信子はお婆ちゃんにもっともっと接近して話したい事が沢山あるような表情でした。でも、母の乗りが悪いんです。あれ程に可愛がった信子のはずなのに母の視線は信子から離れがちでした。信子はお婆ちゃんとのツーショットも撮りたかったはずなんです。
信子に理解して欲しいのは祖母の老い。全てに上の空のようなあの日の母の様子が現在の信子の祖母の全てなんです。母が思い出しさえしてくれたら・・、弾む話が一杯あったはずだと思います。
でも、心優しい信子ちゃんの事だから、頭の切替は早いと思います。あの日の祖母の様子、それはやがて信子の義母さんの姿でもあり、両親である弘さんと紘子の姿でもあるんです。
「おじちゃんの言葉は全部分かるよ。でも、まだ30代の信子には早い・・」、と思うかも知れません。でも、それは違うよ!。
君の祖母は64歳で独居を余儀なくされ、65歳から心臓の痛みや高血圧に苦しみ始めたんです。認知だって私の記憶では多分、この65歳くらいから断片的に始まっていたような幾つかの出来事を記憶しています。
この母の苦しむ姿を見たのは私が27歳の時。新築したばかりの熊本の私の家に母が祝いに駆けつけ、私達夫婦に料理を作ってくれている最中だったんです。
母親って有難いものです。自分が倒れるまで生んだ子供の世話をしようとするんです。勿論、君だってそんな母親になるんだと思います。
信子ちゃん、君は私達兄弟と同じ失敗を繰返さないよう、今からでもお義母さん、そして両親の老いを少しずつ観察し始めていて下さい。
♪:佐世保メモリー
昨日の4.5、長崎に住む姉夫婦に同行して、今は佐世保に嫁いで既に2人の子供の母になった長女の信子とその子供達が我が家へやって来ました。熊本の肥薩オレンジ鉄道に子供達を乗せたいという事と、その帰路に祖母に会いたいという信子の希望があったのです。この信子と信子の祖母にあたる私の母とは単に祖母と孫という関係以上に縁があるんです。
信子が独身時代に栄養管理士として施設に勤めていた時期、信子は母の住むすくそばにアパートを借り、仕事場からは母の元へ直行しては夕飯は母が作って待っているという仲の良さでした。信子はここでの暮らしをとても覚えていて、「お婆ちゃんはとても料理の上手な人だった」、と言います。
もう一つの縁。それは、母が長崎で姉夫婦との同居が約3ヶ月目に入った頃、この信子が最初の子供を出産するという理由で長崎へ帰郷することになり、母が熊本の私の家へ移り住む切っ掛けを作った縁です。
今回の信子とツヤさんとの会話。少なかったですね。信子はお婆ちゃんにもっともっと接近して話したい事が沢山あるような表情でした。でも、母の乗りが悪いんです。あれ程に可愛がった信子のはずなのに母の視線は信子から離れがちでした。信子はお婆ちゃんとのツーショットも撮りたかったはずなんです。
信子に理解して欲しいのは祖母の老い。全てに上の空のようなあの日の母の様子が現在の信子の祖母の全てなんです。母が思い出しさえしてくれたら・・、弾む話が一杯あったはずだと思います。
でも、心優しい信子ちゃんの事だから、頭の切替は早いと思います。あの日の祖母の様子、それはやがて信子の義母さんの姿でもあり、両親である弘さんと紘子の姿でもあるんです。
「おじちゃんの言葉は全部分かるよ。でも、まだ30代の信子には早い・・」、と思うかも知れません。でも、それは違うよ!。
君の祖母は64歳で独居を余儀なくされ、65歳から心臓の痛みや高血圧に苦しみ始めたんです。認知だって私の記憶では多分、この65歳くらいから断片的に始まっていたような幾つかの出来事を記憶しています。
この母の苦しむ姿を見たのは私が27歳の時。新築したばかりの熊本の私の家に母が祝いに駆けつけ、私達夫婦に料理を作ってくれている最中だったんです。
母親って有難いものです。自分が倒れるまで生んだ子供の世話をしようとするんです。勿論、君だってそんな母親になるんだと思います。
信子ちゃん、君は私達兄弟と同じ失敗を繰返さないよう、今からでもお義母さん、そして両親の老いを少しずつ観察し始めていて下さい。
♪:佐世保メモリー
2009年04月09日
♪:同居記録:190
☆2009.4.7。日本の自治体依存型のオーケストラの経営苦を救おう。
嫁が某病院が経営する老健施設のケアマネとして就職して約3週間が過ぎました。思えば、熊大教育学部を出たものの教職を選択せずにミュージシャンとして生きる道を選択したものの現実には厳しい道が待っていました。それでも、当時のブライダルブームのお陰もあって人並み以上の暮らしは出来てきた嫁ですが、音楽家としては世の多くの音楽家と一緒、限界はすぐそこに見えていました。
この日本という国には酒と抱き合わせで音楽で生きる道以外、ほんの一握りの者にしかまともな道が開かれていないという現実。これは文化と言い切っていいような土壌しかありません。私だって父親からは[河原芸人]と言われたものです。
国公立の大学の音楽科、音楽専門大学、音短大、音楽専門学校は数多くあれど内容もレベルも今一つ。どうかすると才能だけで語れば生徒の方があるのではないかと思えるような教育レベル。多くは外国へ留学した後に才能が急激に開花するという・・。これ全てが営利主義からくる弊害です。
今、というよりこの数年の間、我が国のオーケストラが次々と消滅していくという危機があります。音楽はその国の文化の象徴の一つ、文化のアピール手段の大きな一つです。その国のセンスを図る手段。
GNP国内生産世界2位と言いながら、この現実は一体、何なんでしょうか?。オーケストラの10団体、コーラスグループの100組程度は国費で養ってくれよと言いたいです。
午前中は各自治体の市役所等の事務処理やコンピューターソフト開発関連の仕事をさせてもいいではないですか。そして、午後からは練習に没頭させるんです。音楽科の多くは理論派揃いだから頭脳明晰なはず。事務処理ソフトの開発なんてお手の物の人が案外と多いんです。
この不景気だから予算が・・、は言えないはず。数年置きに必ず発覚する熊本県や市の不正。ふやけた仕事して年間に1億円以上も無駄に使われている使途不明瞭な金。この金があれば小編成のオーケストラの一つでも養えるはず。
昨年、熊本城築城400周年を迎えたこの熊本。その華やかなイベントで飾られた次の出し物が今回の不正支出金問題でした。もう、見事な出し物でした。加藤清正が築いたというこの熊本の町と天下の名城熊本城。多分、清正は可愛がってくれた徳川家の資金をコッソリと持ち逃げプールしていたんだろうと思われますよ。間違いなく。公務員汚職は熊本の伝統的な特徴ですね。加藤清正から始まったと言われても仕方がありません。言われ思われて恥ずかしいならどうにかしろよ。
この熊本、県が1億6000万円、市が1億円と言われる使途不明金の発覚。実際には公費購入物の自宅への持ち帰りが多かったといいます。私の知る限り他にもありますよ。県が助成する施設の某課長など、雨の日などは自宅から勤め先まで施設で作ったタクシー券で往復していますからね。それに競輪開催日などに決まって勤務中に姿を隠すビル管理業者なども・・。
少なくとも、市には職員は不要。プロがいないというのが哀れですよ。会計事務所の7箇所でもテナントで入って貰った方が余程いい。少なくとも責任の所在が明確にできる分でも改善が期待できるはずです。市長だって、あんたが不正を指示した訳じゃなし、あんたが悪いんじゃないのに、「スミマセンスミマセン」、って言わなくて済むでしょうに。
♪立田山自然公園にて
嫁が某病院が経営する老健施設のケアマネとして就職して約3週間が過ぎました。思えば、熊大教育学部を出たものの教職を選択せずにミュージシャンとして生きる道を選択したものの現実には厳しい道が待っていました。それでも、当時のブライダルブームのお陰もあって人並み以上の暮らしは出来てきた嫁ですが、音楽家としては世の多くの音楽家と一緒、限界はすぐそこに見えていました。
この日本という国には酒と抱き合わせで音楽で生きる道以外、ほんの一握りの者にしかまともな道が開かれていないという現実。これは文化と言い切っていいような土壌しかありません。私だって父親からは[河原芸人]と言われたものです。
国公立の大学の音楽科、音楽専門大学、音短大、音楽専門学校は数多くあれど内容もレベルも今一つ。どうかすると才能だけで語れば生徒の方があるのではないかと思えるような教育レベル。多くは外国へ留学した後に才能が急激に開花するという・・。これ全てが営利主義からくる弊害です。
今、というよりこの数年の間、我が国のオーケストラが次々と消滅していくという危機があります。音楽はその国の文化の象徴の一つ、文化のアピール手段の大きな一つです。その国のセンスを図る手段。
GNP国内生産世界2位と言いながら、この現実は一体、何なんでしょうか?。オーケストラの10団体、コーラスグループの100組程度は国費で養ってくれよと言いたいです。
午前中は各自治体の市役所等の事務処理やコンピューターソフト開発関連の仕事をさせてもいいではないですか。そして、午後からは練習に没頭させるんです。音楽科の多くは理論派揃いだから頭脳明晰なはず。事務処理ソフトの開発なんてお手の物の人が案外と多いんです。
この不景気だから予算が・・、は言えないはず。数年置きに必ず発覚する熊本県や市の不正。ふやけた仕事して年間に1億円以上も無駄に使われている使途不明瞭な金。この金があれば小編成のオーケストラの一つでも養えるはず。
昨年、熊本城築城400周年を迎えたこの熊本。その華やかなイベントで飾られた次の出し物が今回の不正支出金問題でした。もう、見事な出し物でした。加藤清正が築いたというこの熊本の町と天下の名城熊本城。多分、清正は可愛がってくれた徳川家の資金をコッソリと持ち逃げプールしていたんだろうと思われますよ。間違いなく。公務員汚職は熊本の伝統的な特徴ですね。加藤清正から始まったと言われても仕方がありません。言われ思われて恥ずかしいならどうにかしろよ。
この熊本、県が1億6000万円、市が1億円と言われる使途不明金の発覚。実際には公費購入物の自宅への持ち帰りが多かったといいます。私の知る限り他にもありますよ。県が助成する施設の某課長など、雨の日などは自宅から勤め先まで施設で作ったタクシー券で往復していますからね。それに競輪開催日などに決まって勤務中に姿を隠すビル管理業者なども・・。
少なくとも、市には職員は不要。プロがいないというのが哀れですよ。会計事務所の7箇所でもテナントで入って貰った方が余程いい。少なくとも責任の所在が明確にできる分でも改善が期待できるはずです。市長だって、あんたが不正を指示した訳じゃなし、あんたが悪いんじゃないのに、「スミマセンスミマセン」、って言わなくて済むでしょうに。
♪立田山自然公園にて
2009年04月10日
♪:同居記録:191
☆2009.4.8。「たかっし君(高橋)、元気ね」、と今は友人でピアニストの竹原氏。
「たかっし君、元気ね。お母さんはどうね」、と竹原さんからの久し振りの電話。
「あァ、私は元気モリモリ。大好きな夏に向けて筋トレブリブリやっています」、と私。
「いやハァ、モリモリにブリブリか、羨ましいなァ・・。俺は体調悪くてねェ」、と蚊の泣くようなかすれ声の竹原さん。
「昔のたかっし君はいつも具合が悪そうでなァ・・、気を遣ったもんだけど、どうしてなんだろう。その元気になれる秘訣ってなもんがあんのネ。教えてくれんか?。私はどうも・なァ」、と竹原さん。
「うん、男を棄てる事。限界を察し欲を減らす事。今を楽しみ生きる事。妻を気長ーい、人生の友人と思う事・・デスかネ、ホホ」、と即興気味に言うと、「うーん、俺は幾つになっても男は棄てられんなァ。役に立たん癖に・・。たかっし君は偉いよ・・。男ってのは、うーん、特に音楽家なんて夢を食って生きているようなもんだからなァ」、「あのネ。女なんてもっと酷いもんだよ。貞淑そうでさ、幾つになってもアレの事しか考えとらんもんさ」、「それもネ、亭主とは違う男を探しとってなァ、男に声を掛けられるのを楽しみに化粧するもんよ・、分かる?」、と一気に電話の向こうで・・。ホホ。私が付き合ったオンナなんて犬や猫が多いから余り、深くは分かりません。
でも、今の私に健康の秘訣なんてあるはずがありません。第一、自分を健康だなんて言える様な健全な毎日を送っているはずがありません。
嫁の準備してくれた朝飯食って、仕事に出掛ける嫁を見送り。「何であの人出掛けるの?。何で後片付けもせずにオンナが出て行くの?、喧嘩でもしたにか?。何であの人はお掃除もせずに外出するの・・」、と、何で何でと質問攻めの母をなだめすかしながらお茶碗洗い、洗濯機のホースを浴槽に入れ、洗剤入れてスイッチポン。
車椅子から離れようとする母に、「俺はこれからトイレでウンチするから、お客さんが来たら返事をしてくれ」、とテーマを与え。母が石仏のように玄関の方を見ている間にトイレに駆け込んで用を足しながら歯を磨き・・、これじゃ出る物も出んゾ、ホホ。
ウンチが済んだら(な~んか残っているような・・)、「今度は仕事着に着替えるから、TVの画面の右上の数字が8:15になったら報せてくれ」、と言っては動こうとする母をTV画面に釘付けにさせて部屋に入って適当な服を着て、それが済んだら台所からコップ1杯の水を持ってきて母に朝の薬を飲ませ、メガネを掛けさせ補聴器をセットし、最後にジャンパーを着させて、「さァ、出掛けようか」、と母の座った車椅子を玄関まで進めます。
「あら、何でネ、私は歩いて玄関まで行けるのに・・、何でネ。何で車椅子で行くのネ」、と母。
毎朝恒例の質問攻めがここでも待っています。
「ハァーっ、悔しい。あんた達は二人で私を馬鹿にしてっ。私を不具者のように扱って・・」、と怒る朝が決して珍しくありません。
こんな時、私は、「兎に角、靴を履こうよ。頼むから履かせてくれよ」、と頼みながら母の両足に靴を履かせ、母を玄関に立たせ、玄関先に嫁がプランタンで育て咲かせた季節の花を見せるんです。
あら、不思議。急に母の機嫌が直るんです。
「はァーっ、綺麗ネーッ」、と母。
「嫁さんが育てとるのさ」、と私。
「あら、そんな趣味があるのなら私にも手伝わせて貰うのに」、と母。
「でも、屈めんだろうよ」、と私。
「また、言う!。何の・・私が屈めん事があろうかい」、と母。
「じゃ、屈んでみろよ」、と私。
・・・結局、母は屈む事ができないんです。
「タッケさ~ん、分かりますか~。これが今の俺の生活ですよ」、と私。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・」。
余りに長い私の話に、電話の向こうのタッケさんが眠ってしまったのかな、と思いきや、「たかっし君・・さ。君は変わったなァ」、と。
「君にそんな責任感があったかなァ、と呆れとったさ」、と竹原氏。
この竹原さん。この後は、「会ってから、もっといろいろ話がしたい」、と私の事務所に来られたんです。ホホ。
この竹原さんは私の音楽の師匠のお一人で今年74歳になられます。米軍佐世保基地から来た奴。ベースギターを弾きながらバックコーラスを唄える奴、という事で多少の話題になった私を当時の自分のバンドに引き抜き、始めて私にソロを唄わせたバンマスでした。
ジャズが好きで長年勤めた専売公社を辞職してまでプロのピアニストに転身された竹原さん。特にビルエバンスが好きな方でした。
アメリカ人が愛称で呼び合うように、やはり愛称をつけるのが好きだった私は、「タッケハーランド」、と名付け、タッケさん、タッケさんと呼んだものです。
凄い理論家で同じ曲を4回聴くだけでピアノトリオの3パートの譜面を書いてしまうという特技の持ち主で、当時の熊本のコンボバンドが使っていた譜面の中にはこのタッケさんの手によって書かれたと思われるものが相当に含まれていたような気がします。
その竹原さんですが、私が数年前に再会した時には前立腺ガンの治療中の身でした。「タッケさん、頑張らないかんですよ」、と励ましました。
その後、タッケさんは私の出先の事務所にご自身のピアノを持ち込まれ、私に分厚いベース譜を渡して、「ほい、弾け!」、と。「私はネ、たかっし君の弾くグングンズンズンと引っ張るような感覚のベースが大好きだったよ」、と言われていました。
つい、数ヶ月前までは元気だったのですが、こんな事をやっていた矢先、左半身が痺れだすという症状で入院。その後、身体のあちこちの動脈を交換移植して血流の改善手術をされてどうにか立ち直られ、ホッと息をついたかと思うとガンが発覚する以前から重度の糖尿病だったと医者に言われ、現在は前立腺ガンと糖尿病を相手に必死に頑張っておられます。
このタッケさんには2007年の熊本もやいの丘コンサートでは特別ゲストとして2曲だけソロピアノを弾いていただきました。
「たかっし君、私はねェ。あの時はブリブリと引っ張る君のベースでもっとピアノを弾いていたかったよ」,とタッケさん。
「あの時」、とは多分、私がまだ20歳の頃かと思うのですが、私は自分の都合だけでこの恩師竹原氏の元を去り、妙な方向へ走ってしまったのかなァ、と思います。
不思議にこの頃の事を思いだせない無礼な私が今も居る事に気づいた今日の私でした。.
それにしても、タッケさん。今日は私の事務所で弾いてくれた「煙が目にしみる」、「ミスティ」は素晴らしかったです。ガンなんかには負けず。いつまでも元気で頑張って欲しいと思います。いつか必ず、貴方のピアノの横でベースを弾かせて頂きます。約束しますよ。
♪:老い、そして俺達
「たかっし君、元気ね。お母さんはどうね」、と竹原さんからの久し振りの電話。
「あァ、私は元気モリモリ。大好きな夏に向けて筋トレブリブリやっています」、と私。
「いやハァ、モリモリにブリブリか、羨ましいなァ・・。俺は体調悪くてねェ」、と蚊の泣くようなかすれ声の竹原さん。
「昔のたかっし君はいつも具合が悪そうでなァ・・、気を遣ったもんだけど、どうしてなんだろう。その元気になれる秘訣ってなもんがあんのネ。教えてくれんか?。私はどうも・なァ」、と竹原さん。
「うん、男を棄てる事。限界を察し欲を減らす事。今を楽しみ生きる事。妻を気長ーい、人生の友人と思う事・・デスかネ、ホホ」、と即興気味に言うと、「うーん、俺は幾つになっても男は棄てられんなァ。役に立たん癖に・・。たかっし君は偉いよ・・。男ってのは、うーん、特に音楽家なんて夢を食って生きているようなもんだからなァ」、「あのネ。女なんてもっと酷いもんだよ。貞淑そうでさ、幾つになってもアレの事しか考えとらんもんさ」、「それもネ、亭主とは違う男を探しとってなァ、男に声を掛けられるのを楽しみに化粧するもんよ・、分かる?」、と一気に電話の向こうで・・。ホホ。私が付き合ったオンナなんて犬や猫が多いから余り、深くは分かりません。
でも、今の私に健康の秘訣なんてあるはずがありません。第一、自分を健康だなんて言える様な健全な毎日を送っているはずがありません。
嫁の準備してくれた朝飯食って、仕事に出掛ける嫁を見送り。「何であの人出掛けるの?。何で後片付けもせずにオンナが出て行くの?、喧嘩でもしたにか?。何であの人はお掃除もせずに外出するの・・」、と、何で何でと質問攻めの母をなだめすかしながらお茶碗洗い、洗濯機のホースを浴槽に入れ、洗剤入れてスイッチポン。
車椅子から離れようとする母に、「俺はこれからトイレでウンチするから、お客さんが来たら返事をしてくれ」、とテーマを与え。母が石仏のように玄関の方を見ている間にトイレに駆け込んで用を足しながら歯を磨き・・、これじゃ出る物も出んゾ、ホホ。
ウンチが済んだら(な~んか残っているような・・)、「今度は仕事着に着替えるから、TVの画面の右上の数字が8:15になったら報せてくれ」、と言っては動こうとする母をTV画面に釘付けにさせて部屋に入って適当な服を着て、それが済んだら台所からコップ1杯の水を持ってきて母に朝の薬を飲ませ、メガネを掛けさせ補聴器をセットし、最後にジャンパーを着させて、「さァ、出掛けようか」、と母の座った車椅子を玄関まで進めます。
「あら、何でネ、私は歩いて玄関まで行けるのに・・、何でネ。何で車椅子で行くのネ」、と母。
毎朝恒例の質問攻めがここでも待っています。
「ハァーっ、悔しい。あんた達は二人で私を馬鹿にしてっ。私を不具者のように扱って・・」、と怒る朝が決して珍しくありません。
こんな時、私は、「兎に角、靴を履こうよ。頼むから履かせてくれよ」、と頼みながら母の両足に靴を履かせ、母を玄関に立たせ、玄関先に嫁がプランタンで育て咲かせた季節の花を見せるんです。
あら、不思議。急に母の機嫌が直るんです。
「はァーっ、綺麗ネーッ」、と母。
「嫁さんが育てとるのさ」、と私。
「あら、そんな趣味があるのなら私にも手伝わせて貰うのに」、と母。
「でも、屈めんだろうよ」、と私。
「また、言う!。何の・・私が屈めん事があろうかい」、と母。
「じゃ、屈んでみろよ」、と私。
・・・結局、母は屈む事ができないんです。
「タッケさ~ん、分かりますか~。これが今の俺の生活ですよ」、と私。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・」。
余りに長い私の話に、電話の向こうのタッケさんが眠ってしまったのかな、と思いきや、「たかっし君・・さ。君は変わったなァ」、と。
「君にそんな責任感があったかなァ、と呆れとったさ」、と竹原氏。
この竹原さん。この後は、「会ってから、もっといろいろ話がしたい」、と私の事務所に来られたんです。ホホ。
この竹原さんは私の音楽の師匠のお一人で今年74歳になられます。米軍佐世保基地から来た奴。ベースギターを弾きながらバックコーラスを唄える奴、という事で多少の話題になった私を当時の自分のバンドに引き抜き、始めて私にソロを唄わせたバンマスでした。
ジャズが好きで長年勤めた専売公社を辞職してまでプロのピアニストに転身された竹原さん。特にビルエバンスが好きな方でした。
アメリカ人が愛称で呼び合うように、やはり愛称をつけるのが好きだった私は、「タッケハーランド」、と名付け、タッケさん、タッケさんと呼んだものです。
凄い理論家で同じ曲を4回聴くだけでピアノトリオの3パートの譜面を書いてしまうという特技の持ち主で、当時の熊本のコンボバンドが使っていた譜面の中にはこのタッケさんの手によって書かれたと思われるものが相当に含まれていたような気がします。
その竹原さんですが、私が数年前に再会した時には前立腺ガンの治療中の身でした。「タッケさん、頑張らないかんですよ」、と励ましました。
その後、タッケさんは私の出先の事務所にご自身のピアノを持ち込まれ、私に分厚いベース譜を渡して、「ほい、弾け!」、と。「私はネ、たかっし君の弾くグングンズンズンと引っ張るような感覚のベースが大好きだったよ」、と言われていました。
つい、数ヶ月前までは元気だったのですが、こんな事をやっていた矢先、左半身が痺れだすという症状で入院。その後、身体のあちこちの動脈を交換移植して血流の改善手術をされてどうにか立ち直られ、ホッと息をついたかと思うとガンが発覚する以前から重度の糖尿病だったと医者に言われ、現在は前立腺ガンと糖尿病を相手に必死に頑張っておられます。
このタッケさんには2007年の熊本もやいの丘コンサートでは特別ゲストとして2曲だけソロピアノを弾いていただきました。
「たかっし君、私はねェ。あの時はブリブリと引っ張る君のベースでもっとピアノを弾いていたかったよ」,とタッケさん。
「あの時」、とは多分、私がまだ20歳の頃かと思うのですが、私は自分の都合だけでこの恩師竹原氏の元を去り、妙な方向へ走ってしまったのかなァ、と思います。
不思議にこの頃の事を思いだせない無礼な私が今も居る事に気づいた今日の私でした。.
それにしても、タッケさん。今日は私の事務所で弾いてくれた「煙が目にしみる」、「ミスティ」は素晴らしかったです。ガンなんかには負けず。いつまでも元気で頑張って欲しいと思います。いつか必ず、貴方のピアノの横でベースを弾かせて頂きます。約束しますよ。
♪:老い、そして俺達
2009年04月12日
♪:同居記録:192
☆2009.4.9。嫁と母。母と私。姉の予感。
嫁がケアマネとして働き始め3週間が過ぎました。嫁が受験勉強をし始める事、している事、合格した事、働き出すこと、・・、全てをその都度に説明はしているのですが・・、無理ですよね、それを母に理解させる事。仕方ない事ですが母が混乱しているようなんです。
簡単に言えば、朝の食事だけ作って出して、サッサと出掛けるのが気に食わないみたい・。「どうして、あの人は・・、何であの人は」、と私に聞きます。その度に説明すると、「あっ、そうだった、そうだったネ。あの人も急に大変になったネ」、と言いますから、我が家の変化は理解するんです。
理解するんですが、すぐに忘れては、「どうして?、何で?家に居ないの?」、と。
私の姉は、「母ちゃんだって、博多ではタイピストで働いた事があるくせに・・、理解がないね」、と言います。でも、母が働いたのは独身の頃の事。結婚後はひたすらに子を育て、食事を作る、という家事に専念した人でした。今の母には時代的な変革を把握する能力はなく、ただわが人生観、女性観に鑑みて、「気に食わない人」、に見えるようなんですが、それは仕方がない事。
でも、母なりに理解しようとはしているんです。「尚宏、あなたの奥さん・・、入院中のお母さんの世話が大変なんだろうね。ここの処、ずっと朝が早く帰りも遅いし・・、あの人のお母さんの具合はどうなんだろうネ」、と聞いてきます。
嫁に分かって欲しいのは、今の母が2003年、2004年の頃の嫁のお母さんの事を話す事自体が不思議だという事を・・。自分のその頃の事をまったく分からない母が何故、と思うのです。
嫁の母親・キヌさんは2006年1月20日に亡くなくなりました。生前のキヌさんを母は2回見舞っているし、亡くなった際にはお香典まで包んでいるのですが・・。母はキヌさんの元気な頃、キヌさんが闘病生活をしている頃の事だけはしっかりと記憶しているんです。
何故なんだろう、と随分と考え分析してみました(私も疲れているのに)。キヌさんは母より2歳上でした。私の母はどこかで、「キヌさん、頑張って!。私も負けてはいられない」、みたいな心境の時期が長かったのではないかと思うのです。つまり、母は辛いけど苦しいけど、「私は生きている。だから、キヌさんも生きているはず・・」、と思いたいのだと思うのです。心の張りみたいなものでしょうか。そう思うと、母は本当に頑張っているんだなァ、と思います。
だから、嫁に言いたい。辛抱しろ、とネ。
その母が、ついさっきの事。私が母を部屋に連れて行き、トイレを手伝い、寝床の皺を伸ばし、母を抱きかかえて寝かせ、母のお腹をいつものように擦ってあげている時でした。突然、横になった母が私に言うのです。
「私は本当に幸せ者だよ。いい子供を生んだものだと思うよ。尚宏、ありがとうネ」、と。
「何だと。何だ何だよいきなり・」、と私。
「私はこの歳まで、こうして自分が生んだ子供の誰かにこうして守って貰えるとは思ってもいない事だった。だから、つくづく幸せ者だと思うと言ったんだよ」、と母。
「うーん、そんな事は余り考えん方がいいよ。深刻に受け止めんでくれ。こっちまで考え込んでしまうよ」、と私。
「否、違うネ。お前は特別な子供さ。私は父親からだって母親からだって感じた事がないくらいのモノをお前から感じとるとよ」、と母が言います。そして、「お前の事が神様のように思える時があるとさ」、「時々さ、私が変になってしまう時でもお前はいい方いい方に受け取ろうとしとるのが分かるとさ」、と。「時々、怒ってさ。怖い時があっても、殴られるとか・・、そういう怖さじゃなく、
私が知らん事を教えて貰っとるような怖さたいネ」、と言います。
先日、来熊した姉が長崎へ帰った後、電話を掛けてきて言いました。「尚宏、母ちゃん・・、弱ったヨ。心のどこかで覚悟をネ」、と。
「うん、その言葉は俺が言いたかった事サ」、と私。
姉は3ヶ月に2回程度のぺースで来熊し、その度に2泊か3泊。姉なりの観察をしていると思うのですが、普段は姉の見方と私の見方は結構ズレる事が多いのです。しかし、今回は母の異常状態が姉の面前で出現し、その際の母の言動や表情に姉は非常に驚いていたのです。
母は気丈夫な人だけに、異常性が出た時は全くの別人になります。認知症の究極の姿かも知れません。
これが母ではなく、男性であれば流石の私も多少の怖さを感じるのだろう、と思います。背筋が寒くなるような霊的な顔つきになるんです。
96歳の母。正直な姉は、「尚宏、もう・・、母は96歳よ」、と。
実は私・、少し分かるんです。その辺の事が・・。折角、桜の季節を迎えたというのに・・、お袋、しっかりしろ!。
同居記録:2に書いたように、私には9歳の時に見てきた世界があって、命の理屈が何となく分かるんです。
今回ばかりは姉の言葉に返す言葉を持ちません。ただ、この数年の私はその暗示に逆らって生きています。当然、母の運命も変わるはずだと思いたいんです。
今年は100年に一度と言われるように、太陽の黒点が見えない日が多いとか・・。
私にも、「母に生命を返す時」が迫ってきたような予感が・・、外れて欲しいと願う日々です。
♪:施設にて
嫁がケアマネとして働き始め3週間が過ぎました。嫁が受験勉強をし始める事、している事、合格した事、働き出すこと、・・、全てをその都度に説明はしているのですが・・、無理ですよね、それを母に理解させる事。仕方ない事ですが母が混乱しているようなんです。
簡単に言えば、朝の食事だけ作って出して、サッサと出掛けるのが気に食わないみたい・。「どうして、あの人は・・、何であの人は」、と私に聞きます。その度に説明すると、「あっ、そうだった、そうだったネ。あの人も急に大変になったネ」、と言いますから、我が家の変化は理解するんです。
理解するんですが、すぐに忘れては、「どうして?、何で?家に居ないの?」、と。
私の姉は、「母ちゃんだって、博多ではタイピストで働いた事があるくせに・・、理解がないね」、と言います。でも、母が働いたのは独身の頃の事。結婚後はひたすらに子を育て、食事を作る、という家事に専念した人でした。今の母には時代的な変革を把握する能力はなく、ただわが人生観、女性観に鑑みて、「気に食わない人」、に見えるようなんですが、それは仕方がない事。
でも、母なりに理解しようとはしているんです。「尚宏、あなたの奥さん・・、入院中のお母さんの世話が大変なんだろうね。ここの処、ずっと朝が早く帰りも遅いし・・、あの人のお母さんの具合はどうなんだろうネ」、と聞いてきます。
嫁に分かって欲しいのは、今の母が2003年、2004年の頃の嫁のお母さんの事を話す事自体が不思議だという事を・・。自分のその頃の事をまったく分からない母が何故、と思うのです。
嫁の母親・キヌさんは2006年1月20日に亡くなくなりました。生前のキヌさんを母は2回見舞っているし、亡くなった際にはお香典まで包んでいるのですが・・。母はキヌさんの元気な頃、キヌさんが闘病生活をしている頃の事だけはしっかりと記憶しているんです。
何故なんだろう、と随分と考え分析してみました(私も疲れているのに)。キヌさんは母より2歳上でした。私の母はどこかで、「キヌさん、頑張って!。私も負けてはいられない」、みたいな心境の時期が長かったのではないかと思うのです。つまり、母は辛いけど苦しいけど、「私は生きている。だから、キヌさんも生きているはず・・」、と思いたいのだと思うのです。心の張りみたいなものでしょうか。そう思うと、母は本当に頑張っているんだなァ、と思います。
だから、嫁に言いたい。辛抱しろ、とネ。
その母が、ついさっきの事。私が母を部屋に連れて行き、トイレを手伝い、寝床の皺を伸ばし、母を抱きかかえて寝かせ、母のお腹をいつものように擦ってあげている時でした。突然、横になった母が私に言うのです。
「私は本当に幸せ者だよ。いい子供を生んだものだと思うよ。尚宏、ありがとうネ」、と。
「何だと。何だ何だよいきなり・」、と私。
「私はこの歳まで、こうして自分が生んだ子供の誰かにこうして守って貰えるとは思ってもいない事だった。だから、つくづく幸せ者だと思うと言ったんだよ」、と母。
「うーん、そんな事は余り考えん方がいいよ。深刻に受け止めんでくれ。こっちまで考え込んでしまうよ」、と私。
「否、違うネ。お前は特別な子供さ。私は父親からだって母親からだって感じた事がないくらいのモノをお前から感じとるとよ」、と母が言います。そして、「お前の事が神様のように思える時があるとさ」、「時々さ、私が変になってしまう時でもお前はいい方いい方に受け取ろうとしとるのが分かるとさ」、と。「時々、怒ってさ。怖い時があっても、殴られるとか・・、そういう怖さじゃなく、
私が知らん事を教えて貰っとるような怖さたいネ」、と言います。
先日、来熊した姉が長崎へ帰った後、電話を掛けてきて言いました。「尚宏、母ちゃん・・、弱ったヨ。心のどこかで覚悟をネ」、と。
「うん、その言葉は俺が言いたかった事サ」、と私。
姉は3ヶ月に2回程度のぺースで来熊し、その度に2泊か3泊。姉なりの観察をしていると思うのですが、普段は姉の見方と私の見方は結構ズレる事が多いのです。しかし、今回は母の異常状態が姉の面前で出現し、その際の母の言動や表情に姉は非常に驚いていたのです。
母は気丈夫な人だけに、異常性が出た時は全くの別人になります。認知症の究極の姿かも知れません。
これが母ではなく、男性であれば流石の私も多少の怖さを感じるのだろう、と思います。背筋が寒くなるような霊的な顔つきになるんです。
96歳の母。正直な姉は、「尚宏、もう・・、母は96歳よ」、と。
実は私・、少し分かるんです。その辺の事が・・。折角、桜の季節を迎えたというのに・・、お袋、しっかりしろ!。
同居記録:2に書いたように、私には9歳の時に見てきた世界があって、命の理屈が何となく分かるんです。
今回ばかりは姉の言葉に返す言葉を持ちません。ただ、この数年の私はその暗示に逆らって生きています。当然、母の運命も変わるはずだと思いたいんです。
今年は100年に一度と言われるように、太陽の黒点が見えない日が多いとか・・。
私にも、「母に生命を返す時」が迫ってきたような予感が・・、外れて欲しいと願う日々です。
♪:施設にて
2009年04月13日
♪:同居記録:193
☆2009.4.10。4月8日の記事の続き。ピアニスト・タッケさんの話。
恩師・竹原氏と数ヶ月振りに会い、ジャズの話やら女の話で盛り上がったり無理下がったりしましたが、久し振りに音楽の話をして日頃の肩の凝りや腰の痛みが軽くなりました。この竹原さんは今年74歳。思えば私の父が死んだのが75歳。肝硬変が知らぬ間に悪化していていたんです。
それに比べ、この竹原さんはお若いと思います。元来が童顔の方で話題も若く、昔から年齢差を感じない気さくな方でした。彼の74年の人生の中に私が存在するのは僅か数ヶ月のはず。そんな希薄な関係のはずなんですが、「たかっし君、俺はガンになったよ」、「今、ピロリ菌を退治中」、「ひどい糖尿だって。血管がボロボロってよ」。。、と。何故だか近況報告の電話が数ヶ月~数年置きにあるんです。そして、「会いたいなァ。時間はあるか?」、と。
人間の寿命が長くなったのでしょうか?。スケベ心が長生きをさせるものなのか。この竹原さんが前立腺ガンで余命1年と言われながらも既にそれから2年が過ぎました。やはり、人生に対する拘り、音楽への執念、それも数人の仲間と合奏すると言う・・、そんなものの影響があるのかも知れません。
この竹原さんの場合、ピアノ、ベース、ドラムス&ギター、若しくはボーカルという4人編成、つまり、アンサンブルを楽しむ方なんです。ソロピアノを弾く時とは一味違う演奏スタイルの変わる人でした。
私がこのピアニスト竹原氏と組む際にはブンブンと引っ張り回すようなベースを弾いていました。彼が範としたビルエバンスは元数学教師だけあって、凄く理詰めで整然とした音を作る人でしたから竹原氏も堅実な音使いをする方でした。ただ、ライブ演奏では2曲聴けば十分。今ひとつ面白くないという・・。こんな彼のバンドから引き抜きに合った時、「なんで、俺のような荒っぽいベーシストを・・」、と思いました。
「うーん、ジャズ文化の伝播の仕方の違いみたないもんかなァ。ユーロピアンジャズとアメリカンジャズの違いかなァ」、「兎に角、私は君の荒々しいベースが好きなのさ。な~んかなァ、食われてしまいそうな気がしてなァ、ブリブリとした躍動感ちゅーかなァ」、と言われたのを覚えています。
そんな訳で、私はこの気のいいタッケさんの元でいろんな冒険をさせて頂きました。
「マイワン&オンリーラブ」、「ポルカダッツムーンビーンズ」などはベースギターが主旋律を受持ち、サビからピアノが弾くという。アッドリブも3コ-ラスくらい弾かせて頂いたり・・。アドリブって指定された和音の中での瞬間作曲。ドミソシレファラに如何に命を与えていくかという作業です。私はこのタッケさんの元で演奏させて頂いたお陰で現在の作曲力を頂いたと改めて思うのです。
タッケさんは何でも希望を聞いてくれました。「プロの演奏家が俺はエバンスが好きだ、なんて言っててはいけません。自分のスタイルを作るんですよ」、と私はよく言いました。
そして、いつも間にかこのタッケさんも、「たかっし君、日野テルマサの[白昼の襲撃]をコピーしたからな。このベースは難しいゾ」、と変化を見せてくれるのでした。「コピーという意識じゃ駄目だって」、と言うのですが・・。
この熊本ではジャズでは豊田氏、ラテンではテディ池谷氏という両氏が知られています。でも、地味ではあるんですがこの他にも守山氏、井黒氏。また、ビブラフォンでは吉海氏と凄いキャリアを持った大御所の存在があります。運がいいと言うか図々しいと言うか、私はこうした巨匠達と音を合わせた経験があって、とてもいい思い出になっております。
その中でも、このタッケさんこと竹原さんの存在は私にとってはとても重いものです。ピアニストとベーシストという関係は勿論の事。ステージでは自らは表には出さず、若手の音楽家を育成しようという気持ちを前面に出す人でした。それが嬉しく、いつの間にかピアニスト竹原氏というより、人間タッケさんのファンになっていく私でした。
「どうな?、元気な?」、と数ヶ月、或いは数年に一度の電話。「たかっし君。女はなァ、音楽の糧バイ」、と。ホホ。
私の場合には[雑踏の中での瞑想]なんですが・・。
♪:佐世保メモリー
恩師・竹原氏と数ヶ月振りに会い、ジャズの話やら女の話で盛り上がったり無理下がったりしましたが、久し振りに音楽の話をして日頃の肩の凝りや腰の痛みが軽くなりました。この竹原さんは今年74歳。思えば私の父が死んだのが75歳。肝硬変が知らぬ間に悪化していていたんです。
それに比べ、この竹原さんはお若いと思います。元来が童顔の方で話題も若く、昔から年齢差を感じない気さくな方でした。彼の74年の人生の中に私が存在するのは僅か数ヶ月のはず。そんな希薄な関係のはずなんですが、「たかっし君、俺はガンになったよ」、「今、ピロリ菌を退治中」、「ひどい糖尿だって。血管がボロボロってよ」。。、と。何故だか近況報告の電話が数ヶ月~数年置きにあるんです。そして、「会いたいなァ。時間はあるか?」、と。
人間の寿命が長くなったのでしょうか?。スケベ心が長生きをさせるものなのか。この竹原さんが前立腺ガンで余命1年と言われながらも既にそれから2年が過ぎました。やはり、人生に対する拘り、音楽への執念、それも数人の仲間と合奏すると言う・・、そんなものの影響があるのかも知れません。
この竹原さんの場合、ピアノ、ベース、ドラムス&ギター、若しくはボーカルという4人編成、つまり、アンサンブルを楽しむ方なんです。ソロピアノを弾く時とは一味違う演奏スタイルの変わる人でした。
私がこのピアニスト竹原氏と組む際にはブンブンと引っ張り回すようなベースを弾いていました。彼が範としたビルエバンスは元数学教師だけあって、凄く理詰めで整然とした音を作る人でしたから竹原氏も堅実な音使いをする方でした。ただ、ライブ演奏では2曲聴けば十分。今ひとつ面白くないという・・。こんな彼のバンドから引き抜きに合った時、「なんで、俺のような荒っぽいベーシストを・・」、と思いました。
「うーん、ジャズ文化の伝播の仕方の違いみたないもんかなァ。ユーロピアンジャズとアメリカンジャズの違いかなァ」、「兎に角、私は君の荒々しいベースが好きなのさ。な~んかなァ、食われてしまいそうな気がしてなァ、ブリブリとした躍動感ちゅーかなァ」、と言われたのを覚えています。
そんな訳で、私はこの気のいいタッケさんの元でいろんな冒険をさせて頂きました。
「マイワン&オンリーラブ」、「ポルカダッツムーンビーンズ」などはベースギターが主旋律を受持ち、サビからピアノが弾くという。アッドリブも3コ-ラスくらい弾かせて頂いたり・・。アドリブって指定された和音の中での瞬間作曲。ドミソシレファラに如何に命を与えていくかという作業です。私はこのタッケさんの元で演奏させて頂いたお陰で現在の作曲力を頂いたと改めて思うのです。
タッケさんは何でも希望を聞いてくれました。「プロの演奏家が俺はエバンスが好きだ、なんて言っててはいけません。自分のスタイルを作るんですよ」、と私はよく言いました。
そして、いつも間にかこのタッケさんも、「たかっし君、日野テルマサの[白昼の襲撃]をコピーしたからな。このベースは難しいゾ」、と変化を見せてくれるのでした。「コピーという意識じゃ駄目だって」、と言うのですが・・。
この熊本ではジャズでは豊田氏、ラテンではテディ池谷氏という両氏が知られています。でも、地味ではあるんですがこの他にも守山氏、井黒氏。また、ビブラフォンでは吉海氏と凄いキャリアを持った大御所の存在があります。運がいいと言うか図々しいと言うか、私はこうした巨匠達と音を合わせた経験があって、とてもいい思い出になっております。
その中でも、このタッケさんこと竹原さんの存在は私にとってはとても重いものです。ピアニストとベーシストという関係は勿論の事。ステージでは自らは表には出さず、若手の音楽家を育成しようという気持ちを前面に出す人でした。それが嬉しく、いつの間にかピアニスト竹原氏というより、人間タッケさんのファンになっていく私でした。
「どうな?、元気な?」、と数ヶ月、或いは数年に一度の電話。「たかっし君。女はなァ、音楽の糧バイ」、と。ホホ。
私の場合には[雑踏の中での瞑想]なんですが・・。
♪:佐世保メモリー
2009年04月14日
♪:同居記録:194
☆2009.4.14。母が好き?な、 [♪:母の童歌]
ポタポタと雨音。降ってきそうで降り切れない、降り始めても続かない昨夜からの熊本の雨。今朝もポタポタと・・。
晴れた日には運転席横と右後部座席の窓を少し開けてタバコを吸いながら運転する事が多く、窓を開けたままだと通勤時間帯の北バイパスは行き交う車の音でカーステレオから流れるCDの歌詞までは聴こえない事が多いんです。勿論、母が、「ありゃ、何きゃ?。ありゃ、何ネ?」、と次々と質問する度にCDの音量を下げるからでもあります。
これが寒い日や雨の日だと窓を開けられずにタバコも吸わないから車中のCDの音がよく聴こえるんです。今朝はそんな時でした。
母が耳を傾け、「うん、うん」、と頷きながら私の[♪:母の童歌]を聴いていました。これは母には珍しい事なんです。曲が終わっても、「もう一度聴かせて」、と言うんです。
「あァ、そうね。そうよね。母チャマは本当に働き者だった。畑してもお裁縫をしても料理をしても・・、何でも上手でね」、とCDから流れる私の唄に頷きながら返事をしているんです。
「上の兄さん、姉さん達と歳が離れていて寂しかったろう?」、と私。
「そうでもなかったよ。進さん、勇さんは兄さんというより最初からオジちゃんみたいに思っていたし、女姉妹は仲が良かったからネ。母が死ぬのが早かったからフサ子オバちゃん(姉さん)が母親みたいだったし、ミツ子オバちゃん(姉さん)はツヤ子、ツヤ子って可愛がってくれたからネ」、と母が言います。
母の兄弟姉妹ですが、長男の進さんは14歳違い。次男の勇さんとは12歳違い。長女のフサ子姉さんでも7歳違い。次女のミツ子さんは4歳違いだったようです。
このフサ子姉シャマは週末になると平戸から船に乗って歌が浦に帰るのですが、当時の歌が浦港は遠浅な為、客船は沖合いに停船。そこから艀(はしけ)に乗って岸に着くという・・。幼かった母は母親ライさんから貰った飴玉を口にくわえて艀が岸に着くのを待っていたと言います。
この頃の母はミツ子姉さんに可愛いがられ、近所に住む川尻富士子、ミツエさん姉妹ともよく遊んだようです。皆で近くの山にビャラ(台所で使う火起こし用の小さなバラ木の事)を集めに行ったり・・。
やがて、ミツ子姉シャマも平戸の女学校へ。川尻富士子さんは親戚の家の養女へ・・、と母の身辺に変化が生じます。
「・・母チャマ、あの~。・・母チャマ。何か美味しいモノでもおくれまっせ」、と小学校から帰宅した母はライ母チャマにいつもオネダリをしていたそうです。
「はい、おあがり」、とライ母チャマ。
普段は帰宅すると必ず小さな白い紙に包んだり、小皿の上に母の好きな飴玉を乗せて置いてあったそうですが、時にはこの飴玉を切らして置いてない日があったそうです。そんな日の母は恐る恐る、「何か甘いモノをおくれまっせよーッ」、と遠慮がちに母の背中に向かって催促していたとか・・。
「はい、砂糖でもおあがり」、とライ母さん。
母はライ母さんが見ていない事をいい事に、砂糖壺からすくった砂糖を口に運び、それとは別な皿にオヤツ分の砂糖を入れて食べようとした事もあったようです。でも、何故か母親には叱られたとか・。
当時、父親の河内松若は妻・ライの伯父である濱野冶八から任された平田山炭鉱を経営していて、家には数名の使用人もいるほどの裕福な暮らしをしていたのですが、ライ母チャマは働く事の大切さを教えたかったのでしょうか、ミツ子、ツヤ子には畑仕事を手伝わせ、キュウリやナスを育てさせ、それが成長して大きくなったら買い上げてくれ、母はそれを小遣い銭にしていたと言います。
「そのライ母チャマが死んだ時には寂しかったろうね」、と私。
「そりゃ、そうさ。まだ、私は小さいし、姉シャマ達は平戸の学校だしね。父チャマは朝から酒を飲むし、毎晩のように出掛けちゃ朝方まで帰らんから・・、私は、『父チャマ父チャマ・・』、と朝方まで眠れずに泣いとったさ・。寂しゅうて、寂しゅうてネ」、と深呼吸をしながら昔を語るのです。
「母チャマのお葬式は憶えとるね}、と私。
「あァ、憶えとるよ。うちは禅宗だったからうるさくてネ。でも、笛太鼓が鳴り出すと妙にウキウキしてきてさ・・。それが鳴り止むと今度は妙に寂しゅうなってネ。まだ、私は小さかったから・・、葬式で大人が騒ぐ意味がようは分からんでネェ。それでも、母チャマがおらんようになった事だけは分かっとったねェ・・」、と。
「それで、フサ子姉さんがライ母チャマの代わりをするようになったんだ」、と私。
「そう、丁度、女学校を卒業してどこかで働こうとか、嫁入りの話も出とったような・・」、と母。
「そのフサ子姉シャマの料理はどうだった?」、と私。
「そりゃァ、上手かったよ。私はフサ子姉シャマに料理を習ったようなもんさ」、と母。
「そうするうちに自分が平戸女学校に入り、そこにミツ子姉さんが居たんだけど、寄宿舎ではミツ子姉さんの部屋に行ったりしていたんだろう?」、と私。
「それがそうでもなかったよ。姉シャマにも都合があったんだろうがネ。寄宿舎で一緒に何かをした覚えがないとよ」、と母。
「・・それで、夜な夜な泣いとったんだ。ホホ」、と私。
「いつも泣いとった訳じゃないさ。考えてご覧。歌が浦と平戸島は近いものだけど、その頃は船でしか行き来ができなかったから・・ネ、歌が浦が恋しくなっても仕方がなかったさ。博多から来とった同じ部屋の生徒なんか毎晩泣いとったぐらいさ」、とむきになる母。
やがて、私の母・ツヤも女学校を卒業して歌が浦へ帰るのですが、母には試練が待ち受けていました。
腎臓病を悪化させ、48歳の若さで世を去った母親・ライの体質を受継いでいた母は幼い頃からの身体中の節々が痛むという症状が更に進み、幼い頃から通っていた鍼や灸だけでは治らない感じた長男の河内進氏は妹を半年間の湯治に出すのです。山口県にあった俵山温泉という場所です。
この頃の進兄シャマは濱野冶八から引継いだ鹿町炭鉱を経営していて、母の湯治生活の全てを負担してくれたそうです。
この頃、フサ子姉シャマは既に嫁いで向フサ子になっていました。幼い長男の浩巳を抱いて湯治生活をしていた妹ツヤを訪ねて俵山温泉まで来た事があるとか。
長男の進兄シャマは散弾銃での猟が好き。次男の勇兄シャマは当時では珍しいテニスの名人。兄弟でテニスをする事もあったと母は言います。
体力を回復させたツヤ子の次の試練は父親が進めていた見合い話でした。母は次女・フサ子姉シャマの嫁ぎ先、当時博多で電気工事店を開業していた向(むこう)家を頼りに父・松若の元を去るのです。
そして、博多ではタイピスト養成学校へ入って優秀な成績を収めますが、博多で開業していた向電気店が佐世保へ移転するのに伴い、母も佐世保に移り住み、この佐世保の地でタイピスト養成校を作っては、という勧めもあったそうですが、母は再び博多に戻っては高口ハガネ店に就職します。
母は、「私はフサ子オバちゃん(姉さん)に育てられたようなもの」。と常々言います。兄弟が多く、仲が良いって羨ましい事です。こうやって、母の歴史を辿っていくうちに見えてくるのは兄弟姉妹の仲の良さです。
この[♪:母の童歌]を書いたのは私なんですが、「へー、スゲー。母の人生がすぐそこに見えるようだ」、と自分でも思います。母の老い・・、壊れかけた母。悩む事の多い最近の私です。でも、この作品を聴く度、母と暮らそうと思った2003年の原点に戻れるような気がするんです。
♪:母の童歌
ポタポタと雨音。降ってきそうで降り切れない、降り始めても続かない昨夜からの熊本の雨。今朝もポタポタと・・。
晴れた日には運転席横と右後部座席の窓を少し開けてタバコを吸いながら運転する事が多く、窓を開けたままだと通勤時間帯の北バイパスは行き交う車の音でカーステレオから流れるCDの歌詞までは聴こえない事が多いんです。勿論、母が、「ありゃ、何きゃ?。ありゃ、何ネ?」、と次々と質問する度にCDの音量を下げるからでもあります。
これが寒い日や雨の日だと窓を開けられずにタバコも吸わないから車中のCDの音がよく聴こえるんです。今朝はそんな時でした。
母が耳を傾け、「うん、うん」、と頷きながら私の[♪:母の童歌]を聴いていました。これは母には珍しい事なんです。曲が終わっても、「もう一度聴かせて」、と言うんです。
「あァ、そうね。そうよね。母チャマは本当に働き者だった。畑してもお裁縫をしても料理をしても・・、何でも上手でね」、とCDから流れる私の唄に頷きながら返事をしているんです。
「上の兄さん、姉さん達と歳が離れていて寂しかったろう?」、と私。
「そうでもなかったよ。進さん、勇さんは兄さんというより最初からオジちゃんみたいに思っていたし、女姉妹は仲が良かったからネ。母が死ぬのが早かったからフサ子オバちゃん(姉さん)が母親みたいだったし、ミツ子オバちゃん(姉さん)はツヤ子、ツヤ子って可愛がってくれたからネ」、と母が言います。
母の兄弟姉妹ですが、長男の進さんは14歳違い。次男の勇さんとは12歳違い。長女のフサ子姉さんでも7歳違い。次女のミツ子さんは4歳違いだったようです。
このフサ子姉シャマは週末になると平戸から船に乗って歌が浦に帰るのですが、当時の歌が浦港は遠浅な為、客船は沖合いに停船。そこから艀(はしけ)に乗って岸に着くという・・。幼かった母は母親ライさんから貰った飴玉を口にくわえて艀が岸に着くのを待っていたと言います。
この頃の母はミツ子姉さんに可愛いがられ、近所に住む川尻富士子、ミツエさん姉妹ともよく遊んだようです。皆で近くの山にビャラ(台所で使う火起こし用の小さなバラ木の事)を集めに行ったり・・。
やがて、ミツ子姉シャマも平戸の女学校へ。川尻富士子さんは親戚の家の養女へ・・、と母の身辺に変化が生じます。
「・・母チャマ、あの~。・・母チャマ。何か美味しいモノでもおくれまっせ」、と小学校から帰宅した母はライ母チャマにいつもオネダリをしていたそうです。
「はい、おあがり」、とライ母チャマ。
普段は帰宅すると必ず小さな白い紙に包んだり、小皿の上に母の好きな飴玉を乗せて置いてあったそうですが、時にはこの飴玉を切らして置いてない日があったそうです。そんな日の母は恐る恐る、「何か甘いモノをおくれまっせよーッ」、と遠慮がちに母の背中に向かって催促していたとか・・。
「はい、砂糖でもおあがり」、とライ母さん。
母はライ母さんが見ていない事をいい事に、砂糖壺からすくった砂糖を口に運び、それとは別な皿にオヤツ分の砂糖を入れて食べようとした事もあったようです。でも、何故か母親には叱られたとか・。
当時、父親の河内松若は妻・ライの伯父である濱野冶八から任された平田山炭鉱を経営していて、家には数名の使用人もいるほどの裕福な暮らしをしていたのですが、ライ母チャマは働く事の大切さを教えたかったのでしょうか、ミツ子、ツヤ子には畑仕事を手伝わせ、キュウリやナスを育てさせ、それが成長して大きくなったら買い上げてくれ、母はそれを小遣い銭にしていたと言います。
「そのライ母チャマが死んだ時には寂しかったろうね」、と私。
「そりゃ、そうさ。まだ、私は小さいし、姉シャマ達は平戸の学校だしね。父チャマは朝から酒を飲むし、毎晩のように出掛けちゃ朝方まで帰らんから・・、私は、『父チャマ父チャマ・・』、と朝方まで眠れずに泣いとったさ・。寂しゅうて、寂しゅうてネ」、と深呼吸をしながら昔を語るのです。
「母チャマのお葬式は憶えとるね}、と私。
「あァ、憶えとるよ。うちは禅宗だったからうるさくてネ。でも、笛太鼓が鳴り出すと妙にウキウキしてきてさ・・。それが鳴り止むと今度は妙に寂しゅうなってネ。まだ、私は小さかったから・・、葬式で大人が騒ぐ意味がようは分からんでネェ。それでも、母チャマがおらんようになった事だけは分かっとったねェ・・」、と。
「それで、フサ子姉さんがライ母チャマの代わりをするようになったんだ」、と私。
「そう、丁度、女学校を卒業してどこかで働こうとか、嫁入りの話も出とったような・・」、と母。
「そのフサ子姉シャマの料理はどうだった?」、と私。
「そりゃァ、上手かったよ。私はフサ子姉シャマに料理を習ったようなもんさ」、と母。
「そうするうちに自分が平戸女学校に入り、そこにミツ子姉さんが居たんだけど、寄宿舎ではミツ子姉さんの部屋に行ったりしていたんだろう?」、と私。
「それがそうでもなかったよ。姉シャマにも都合があったんだろうがネ。寄宿舎で一緒に何かをした覚えがないとよ」、と母。
「・・それで、夜な夜な泣いとったんだ。ホホ」、と私。
「いつも泣いとった訳じゃないさ。考えてご覧。歌が浦と平戸島は近いものだけど、その頃は船でしか行き来ができなかったから・・ネ、歌が浦が恋しくなっても仕方がなかったさ。博多から来とった同じ部屋の生徒なんか毎晩泣いとったぐらいさ」、とむきになる母。
やがて、私の母・ツヤも女学校を卒業して歌が浦へ帰るのですが、母には試練が待ち受けていました。
腎臓病を悪化させ、48歳の若さで世を去った母親・ライの体質を受継いでいた母は幼い頃からの身体中の節々が痛むという症状が更に進み、幼い頃から通っていた鍼や灸だけでは治らない感じた長男の河内進氏は妹を半年間の湯治に出すのです。山口県にあった俵山温泉という場所です。
この頃の進兄シャマは濱野冶八から引継いだ鹿町炭鉱を経営していて、母の湯治生活の全てを負担してくれたそうです。
この頃、フサ子姉シャマは既に嫁いで向フサ子になっていました。幼い長男の浩巳を抱いて湯治生活をしていた妹ツヤを訪ねて俵山温泉まで来た事があるとか。
長男の進兄シャマは散弾銃での猟が好き。次男の勇兄シャマは当時では珍しいテニスの名人。兄弟でテニスをする事もあったと母は言います。
体力を回復させたツヤ子の次の試練は父親が進めていた見合い話でした。母は次女・フサ子姉シャマの嫁ぎ先、当時博多で電気工事店を開業していた向(むこう)家を頼りに父・松若の元を去るのです。
そして、博多ではタイピスト養成学校へ入って優秀な成績を収めますが、博多で開業していた向電気店が佐世保へ移転するのに伴い、母も佐世保に移り住み、この佐世保の地でタイピスト養成校を作っては、という勧めもあったそうですが、母は再び博多に戻っては高口ハガネ店に就職します。
母は、「私はフサ子オバちゃん(姉さん)に育てられたようなもの」。と常々言います。兄弟が多く、仲が良いって羨ましい事です。こうやって、母の歴史を辿っていくうちに見えてくるのは兄弟姉妹の仲の良さです。
この[♪:母の童歌]を書いたのは私なんですが、「へー、スゲー。母の人生がすぐそこに見えるようだ」、と自分でも思います。母の老い・・、壊れかけた母。悩む事の多い最近の私です。でも、この作品を聴く度、母と暮らそうと思った2003年の原点に戻れるような気がするんです。
♪:母の童歌
2009年04月16日
♪:同居記録:195
☆2009.4.15。昔、親父がくれた日本刀。
私が大学2年の頃。学生とは言っても学資、生活費と自分で稼いでいましたから私が帰省するとしても1泊2日、せいぜい2泊3日。
我が父は、自らは柳川の農家の三男として生まれながら苦学し、明大在学中に難関だった外務官試験に合格、現在のわが国の社会保険制度に繋がるその基礎を学びに欧州行ったほどの人物。そして、辛抱を重ねて自分の弟を外科医にまでした人。そんな人でしたから、私の苦学振りなど見向きもしない人のようでした。
そんな私の帰省中のある日、突然に父が私に向かって言ったんです。
「尚宏、私の刀、持って帰るか?・・、全部」、と。
「えッ」、と私は驚きました。丁度、父が気にしていたらしい庭の花壇の縁石の歪みをを父の指示通りに直し終えた時でした。
「私はお前に刀を全部譲りたいんだ。多分、お前なら大事にするだろうから」、と父。
そして、「手入れの仕方はお前が小さい頃から私がしている姿を見ているから分かっているな?」、と言うんです。
「そりゃ、研ぎ方まで全部分かっているけど、姉ちゃん、兄貴には言わんでいいと」、と私は訊ねます。
「紘子は要らんだろう。むしろ、紘子や利彦には掛け軸を残してやった方がいいと思う」、と父が言います。
「そうね。俺もそう思う」、と私。
「そう、だから全部お前が持っといて欲しいとさ。ただ、名義変更やら未登録のものがあるし、結構、金が掛かるから 、その時には前がどう処分しても構わんよ。」、と父は言います。そして、言葉を続けました。
「それに刀は切れ物だから、振り回しちゃいかんぞ」、と。
父が持っていた刀は自称・名刀ばかり・・?。この他にも父の刀は柳川の父の実家や親戚に預けたままになっているものを含めると、「170本を越える」、と私が幼い頃からよく言っていたものです。伊万里市に住んだ頃には刀の他にも掛け軸などは相当な数があったのを記憶しています。宮崎県庁に勤めた頃にも相当数を集めた、と言っていました。
自分で集めたもの。それに医者だった弟と一緒に集めたもの、と。確かに私が幼い頃から目にしただけでも数十本(正確には数十振り)の日本刀を所持していました。勿論、その多くは所持許可証がありましたが、中には許可証がないものもかなりの数があったようです。
伊万里市に住んだ頃にはタクシー会社の経営者だという強面の人が広島から訪ねて来られたり、各地から父の持つ刀目当ての来客があったのを記憶しています。皆さんが欲しがっていました。
来客の多くは[日本名刀図鑑]みたいなものを持参し、長さを測ったり、波打つ刃波を照合させたり、作者の刻印を確認したり・・、どうしても分からないモノは刀の上から和紙をあてて鉛筆で型を取ったり・・。多分、その型紙を元に刀の真偽を調べるという方法があったのだと思うのです。
確かに数本の国宝級の刀もあったようでした。「ほら、この本に載っている刀がこれとこれ。それにこれだ」、と父が名刀図鑑を片手に自慢した事もありました。私が中学生の頃でも1本で数千万級という刀もありました。当時の文化庁が発行したものでしょうか、この当時の価格表の写しは今でも持っています。
父は手入れをする刀を広げる歳、それに手入れをした刀を片付ける際には必ず、「おい、ナオヒロ」、と私に指示したものです。だから、いつの間にか私は刀の取り扱い方、手入れの仕方から研ぎ方の基本までが分かっていたのでした。
思い出してみると、父が私に声を掛ける時って、屋根や庇の修理をするなどの木工をする時、隣地との境界に数百個の石を積み上げる時、門から玄関までの通路を砂利道からコンクリートに舗装する時・・、そんな時ばかりだった事を妙に可笑しく思い出します。
でも、その頃に父と一緒にやっていた事の多くが、いつの間にか独り暮らしをしていた若い頃の私を支える力になっていたのです。電気工事以外に大工や造園業などでお金が貰えたのは父のお陰かも知れません。
その父の刀ですが、何故かは分かりませんが、伊万里市の炭鉱が閉山して佐世保に住まいを構えた時には僅か31振りに数を減らしていたんです。それでも父は時折、大切そうに研いだりしていました。
私の中学、高校の頃。その刀。刀ゆえに取り持つ災いというものがあるのでしょう。炭鉱を手放した無念さで心晴れない心境の日も父にはあったのでしょう。時折ですが、この佐世保の家にもそんな父が自慢する刀の話題で数名の方々が打診してきました。父にすれば気分が高揚する数少ない機会でもあったのです。
でも、そうして接近する人の中には詐欺紛いの事を考える人も居たのだと思います。長々と刀の話をし、父が彼らに背中を向けて本棚に向かい刀関係の書物を出す隙に、或いは茶を飲み過ぎた父が小用を足しに席を外した間に、予め持参していた安物の刀身と中身を入れ替えようとする輩も居たほどです。勿論、私が目撃した限りでは、そうした行為は許してはいません。
「お父ちゃま、こいつらには刀を見せるのを止めたがいい。盗みにきているだけ」、と進言したからです。ただ、こうした来客の度に私が父の傍にいた訳ではありません。
「(刀)が戻ってこない。まだ返ってこない」、と父が言う日があった事も私は目撃しています。この時の、「誰かに預けた」、と言う父の言葉が事実だったのか否かは確かめようがありませんが、佐世保時代の父が懇意にしていた掛かりつけのAという病院経営者の存在があったのは事実です。でも、父は確実に記憶が薄くなっていくようでした。
父が私に、「持っていけ」、と言った理由がその辺にあるのではないかと思っています。
「もう、自分には保管ができない」、と。丁度、姉が嫁いで暫く経った頃の事です。
既に父は自分が分からなくなる時がある事を予期していたのか、既にそうした時期が始まっていたのか・・。父は75歳で他界しましたが、私の知る限りでは73歳の頃には今で言う認知があったような気がします。
「尚宏、佐世保へはどうやって帰ってきた?。高速か一般道か?」、と。そして、5分も経たないのに同じ質問。
やがて、「庭のミカンをとっておいで」、と言い。私が袋まで剥いて父の口に次々と投げ込んでいるというのに、「尚宏、庭のミカンをとっておいで。美味いから食べてみろ」、と・・。
この父の姿を見たのは私だけのような気がします。もう、私の青春が終わりかけようとしていました。
こんな父でも、最後の頑張りを見せてくました。父は75歳で他界する数ヶ月前、嫁を取る私の祝いの席では作法も言葉もキリッとした父の姿があったんです。
子にとっては我が親の老いってなかなか見えるものではありません。それは、親の老いを信じたくない自分が居るからです。老いていく親を目撃する為には、[そうした思いの目]を持たなければ見えないものです。
この父から譲り受けた刀ですが、独身時代の私の下宿で、結婚後の我が家のタンスの最下段で誰の目にも触れる事無く静かに眠り続けていたのですが、突然に眠りから目を覚ます時が来るのです。
この件、またいつか書くかも・・。
♪:母のクーデター
私が大学2年の頃。学生とは言っても学資、生活費と自分で稼いでいましたから私が帰省するとしても1泊2日、せいぜい2泊3日。
我が父は、自らは柳川の農家の三男として生まれながら苦学し、明大在学中に難関だった外務官試験に合格、現在のわが国の社会保険制度に繋がるその基礎を学びに欧州行ったほどの人物。そして、辛抱を重ねて自分の弟を外科医にまでした人。そんな人でしたから、私の苦学振りなど見向きもしない人のようでした。
そんな私の帰省中のある日、突然に父が私に向かって言ったんです。
「尚宏、私の刀、持って帰るか?・・、全部」、と。
「えッ」、と私は驚きました。丁度、父が気にしていたらしい庭の花壇の縁石の歪みをを父の指示通りに直し終えた時でした。
「私はお前に刀を全部譲りたいんだ。多分、お前なら大事にするだろうから」、と父。
そして、「手入れの仕方はお前が小さい頃から私がしている姿を見ているから分かっているな?」、と言うんです。
「そりゃ、研ぎ方まで全部分かっているけど、姉ちゃん、兄貴には言わんでいいと」、と私は訊ねます。
「紘子は要らんだろう。むしろ、紘子や利彦には掛け軸を残してやった方がいいと思う」、と父が言います。
「そうね。俺もそう思う」、と私。
「そう、だから全部お前が持っといて欲しいとさ。ただ、名義変更やら未登録のものがあるし、結構、金が掛かるから 、その時には前がどう処分しても構わんよ。」、と父は言います。そして、言葉を続けました。
「それに刀は切れ物だから、振り回しちゃいかんぞ」、と。
父が持っていた刀は自称・名刀ばかり・・?。この他にも父の刀は柳川の父の実家や親戚に預けたままになっているものを含めると、「170本を越える」、と私が幼い頃からよく言っていたものです。伊万里市に住んだ頃には刀の他にも掛け軸などは相当な数があったのを記憶しています。宮崎県庁に勤めた頃にも相当数を集めた、と言っていました。
自分で集めたもの。それに医者だった弟と一緒に集めたもの、と。確かに私が幼い頃から目にしただけでも数十本(正確には数十振り)の日本刀を所持していました。勿論、その多くは所持許可証がありましたが、中には許可証がないものもかなりの数があったようです。
伊万里市に住んだ頃にはタクシー会社の経営者だという強面の人が広島から訪ねて来られたり、各地から父の持つ刀目当ての来客があったのを記憶しています。皆さんが欲しがっていました。
来客の多くは[日本名刀図鑑]みたいなものを持参し、長さを測ったり、波打つ刃波を照合させたり、作者の刻印を確認したり・・、どうしても分からないモノは刀の上から和紙をあてて鉛筆で型を取ったり・・。多分、その型紙を元に刀の真偽を調べるという方法があったのだと思うのです。
確かに数本の国宝級の刀もあったようでした。「ほら、この本に載っている刀がこれとこれ。それにこれだ」、と父が名刀図鑑を片手に自慢した事もありました。私が中学生の頃でも1本で数千万級という刀もありました。当時の文化庁が発行したものでしょうか、この当時の価格表の写しは今でも持っています。
父は手入れをする刀を広げる歳、それに手入れをした刀を片付ける際には必ず、「おい、ナオヒロ」、と私に指示したものです。だから、いつの間にか私は刀の取り扱い方、手入れの仕方から研ぎ方の基本までが分かっていたのでした。
思い出してみると、父が私に声を掛ける時って、屋根や庇の修理をするなどの木工をする時、隣地との境界に数百個の石を積み上げる時、門から玄関までの通路を砂利道からコンクリートに舗装する時・・、そんな時ばかりだった事を妙に可笑しく思い出します。
でも、その頃に父と一緒にやっていた事の多くが、いつの間にか独り暮らしをしていた若い頃の私を支える力になっていたのです。電気工事以外に大工や造園業などでお金が貰えたのは父のお陰かも知れません。
その父の刀ですが、何故かは分かりませんが、伊万里市の炭鉱が閉山して佐世保に住まいを構えた時には僅か31振りに数を減らしていたんです。それでも父は時折、大切そうに研いだりしていました。
私の中学、高校の頃。その刀。刀ゆえに取り持つ災いというものがあるのでしょう。炭鉱を手放した無念さで心晴れない心境の日も父にはあったのでしょう。時折ですが、この佐世保の家にもそんな父が自慢する刀の話題で数名の方々が打診してきました。父にすれば気分が高揚する数少ない機会でもあったのです。
でも、そうして接近する人の中には詐欺紛いの事を考える人も居たのだと思います。長々と刀の話をし、父が彼らに背中を向けて本棚に向かい刀関係の書物を出す隙に、或いは茶を飲み過ぎた父が小用を足しに席を外した間に、予め持参していた安物の刀身と中身を入れ替えようとする輩も居たほどです。勿論、私が目撃した限りでは、そうした行為は許してはいません。
「お父ちゃま、こいつらには刀を見せるのを止めたがいい。盗みにきているだけ」、と進言したからです。ただ、こうした来客の度に私が父の傍にいた訳ではありません。
「(刀)が戻ってこない。まだ返ってこない」、と父が言う日があった事も私は目撃しています。この時の、「誰かに預けた」、と言う父の言葉が事実だったのか否かは確かめようがありませんが、佐世保時代の父が懇意にしていた掛かりつけのAという病院経営者の存在があったのは事実です。でも、父は確実に記憶が薄くなっていくようでした。
父が私に、「持っていけ」、と言った理由がその辺にあるのではないかと思っています。
「もう、自分には保管ができない」、と。丁度、姉が嫁いで暫く経った頃の事です。
既に父は自分が分からなくなる時がある事を予期していたのか、既にそうした時期が始まっていたのか・・。父は75歳で他界しましたが、私の知る限りでは73歳の頃には今で言う認知があったような気がします。
「尚宏、佐世保へはどうやって帰ってきた?。高速か一般道か?」、と。そして、5分も経たないのに同じ質問。
やがて、「庭のミカンをとっておいで」、と言い。私が袋まで剥いて父の口に次々と投げ込んでいるというのに、「尚宏、庭のミカンをとっておいで。美味いから食べてみろ」、と・・。
この父の姿を見たのは私だけのような気がします。もう、私の青春が終わりかけようとしていました。
こんな父でも、最後の頑張りを見せてくました。父は75歳で他界する数ヶ月前、嫁を取る私の祝いの席では作法も言葉もキリッとした父の姿があったんです。
子にとっては我が親の老いってなかなか見えるものではありません。それは、親の老いを信じたくない自分が居るからです。老いていく親を目撃する為には、[そうした思いの目]を持たなければ見えないものです。
この父から譲り受けた刀ですが、独身時代の私の下宿で、結婚後の我が家のタンスの最下段で誰の目にも触れる事無く静かに眠り続けていたのですが、突然に眠りから目を覚ます時が来るのです。
この件、またいつか書くかも・・。
♪:母のクーデター
2009年04月17日
♪:同居記録:196
☆2009.4.16。母が少しずつ確実に壊れていく・。
この数週間。デイから帰宅した母の生活パターンがまるで変わってしまう日が多くなっています。
いつもの母だと、「あァ、お天気もよく、学校にも三味線弾く人達が来てさ。今日はいい日だったよ」、「うーん、ちょっと疲れたかね。寒い日は嫌だね。何もせんのに疲れて・・」、などど言いながら必ず17:00前後まではベッドで横になっていたんです。
それが、この1ヶ月くらい前からは帰宅しても横になろうとしません。「何で横にならせるんだ。私の事がそんなに面倒くさいのか」、と怒るんです。毎日という訳ではありません。ただ、高齢ですからね・・。
「俺と同じような時間を過ごしても構わんけど・・、俺といつも一緒に過ごそうとすればする程に、疲れが溜まるもんだよ」、と言うのですが・・、最近の母は何か・・に急ぎ焦っています。まるで、1分,例え1秒でも私と居たいようなんです。
「尚宏、どこに居ると?」、と母。
「あァ、ここに居るよ。あんたの後ろの台所でパソコンを組み立てているよ」、と私。
「あ・・、そこから私が分かるね?。私が見えているネ?。・・だったら、いい」、と母。
この会話・・、単に我がまま母親にマザコン息子の光景に見えるかも知れません。最近の母は自身に生命の危機が迫ってきている事を感じ始めているんです。もう、・・危ない、と。
だから、しっかり守ってくれと懇願しているんです。
私が何回目かの命の危機の際、親も兄弟の存在も忘れ、ひたすらに嫁を身近かに感じたように、母は私の存在を確認したくて堪らないのだと思うのです。何度となく死線をさ迷った私にはそれが分かるのです。誰が現在の自分の支えなのか。誰が今の自分にとっての絶対神なのかが・・・。
皆さん、神の存在って・・、そんなものなんです。我が心を支える最後の一枝。最後の一花。最後の存在であるヒト・・。それが神の姿なんです。そして、救いの手を差し延べ得るモノ。現世から来世への世界へ穏やかに安らかに導き得る者。私と母とが7年を要して築き上げたエニシ・・。
今、母は私の親である事を忘れて私に心を託し、私は母の子である事を忘れ 、ただ細りゆく命を支えて神の大地に新たな命の苗を植えるが如くに新たな暮らしを始めています。
そう思う事でしか今を乗り切れない、解決できない。今を許せないのです。
私が神になる?・・。母の神になる?・・。飛んでもない事ですね。でも、やってみますよ。
ただ、これまでの私の人生を振返れば神は何故か私の事を気に入ってくれているようだから・・・母より先に私が召されなければいいが・・と思います。
♪:母に生命を返す時
この数週間。デイから帰宅した母の生活パターンがまるで変わってしまう日が多くなっています。
いつもの母だと、「あァ、お天気もよく、学校にも三味線弾く人達が来てさ。今日はいい日だったよ」、「うーん、ちょっと疲れたかね。寒い日は嫌だね。何もせんのに疲れて・・」、などど言いながら必ず17:00前後まではベッドで横になっていたんです。
それが、この1ヶ月くらい前からは帰宅しても横になろうとしません。「何で横にならせるんだ。私の事がそんなに面倒くさいのか」、と怒るんです。毎日という訳ではありません。ただ、高齢ですからね・・。
「俺と同じような時間を過ごしても構わんけど・・、俺といつも一緒に過ごそうとすればする程に、疲れが溜まるもんだよ」、と言うのですが・・、最近の母は何か・・に急ぎ焦っています。まるで、1分,例え1秒でも私と居たいようなんです。
「尚宏、どこに居ると?」、と母。
「あァ、ここに居るよ。あんたの後ろの台所でパソコンを組み立てているよ」、と私。
「あ・・、そこから私が分かるね?。私が見えているネ?。・・だったら、いい」、と母。
この会話・・、単に我がまま母親にマザコン息子の光景に見えるかも知れません。最近の母は自身に生命の危機が迫ってきている事を感じ始めているんです。もう、・・危ない、と。
だから、しっかり守ってくれと懇願しているんです。
私が何回目かの命の危機の際、親も兄弟の存在も忘れ、ひたすらに嫁を身近かに感じたように、母は私の存在を確認したくて堪らないのだと思うのです。何度となく死線をさ迷った私にはそれが分かるのです。誰が現在の自分の支えなのか。誰が今の自分にとっての絶対神なのかが・・・。
皆さん、神の存在って・・、そんなものなんです。我が心を支える最後の一枝。最後の一花。最後の存在であるヒト・・。それが神の姿なんです。そして、救いの手を差し延べ得るモノ。現世から来世への世界へ穏やかに安らかに導き得る者。私と母とが7年を要して築き上げたエニシ・・。
今、母は私の親である事を忘れて私に心を託し、私は母の子である事を忘れ 、ただ細りゆく命を支えて神の大地に新たな命の苗を植えるが如くに新たな暮らしを始めています。
そう思う事でしか今を乗り切れない、解決できない。今を許せないのです。
私が神になる?・・。母の神になる?・・。飛んでもない事ですね。でも、やってみますよ。
ただ、これまでの私の人生を振返れば神は何故か私の事を気に入ってくれているようだから・・・母より先に私が召されなければいいが・・と思います。
♪:母に生命を返す時
2009年04月18日
♪:同居記録:197
☆2009.4.17。[家系譜]を作ろう。【母に生命を返す時】だって立派な家系譜作りかも・・。
「家系譜を書き残しなさい」、とよく言う人がいます。信心深い人なんでしょうね。恥ずかしい話ですが、家計簿は知っていても家系譜なんて言葉は父親が死ぬまで知りませんでしたよ。
源頼朝が誰と誰の間に生まれ、父方には誰々が・・、母方のオジには誰々が・・、というそんな事を書き記したもの。家系譜とはその[我が家版]という奴で、どこの家庭にもあった方がいい。なければ作っておきなさい。それが先祖供養になるし、自分の存在を末裔にまで知らしめる事にもなると・・、そういう教えなんです。
確かに、家系譜って作っていく内にいろんな事を教えてくれます。作るには、自分の孫や子から作り始めるがいいようです。長崎の姉の場合だと、ユウヤ&ケンタという孫が居て、父は倉地ヒデオ+母・ノブコ。ノブコの父は横内ヒロシ+母・ヒロコ・・、みたいな書き順です。
これを上から辿ろうとすると大変。オジやオバに電話をして、「貴女には何人の兄弟が居て、それぞれの子は・・孫の名は?」、なんて聞いても絶対にどこかでズレてきます。第一、私の場合にはオジやオバが殆ど存命していません。事前に兄弟、従兄弟にそれぞれの家系譜作りを依頼し、それを集め合せる方法がいいと思います。これ、絶対にやったがいい。それも早ければ早いほど楽です。
そうやっていると自分の性格や体質、趣味までが誰の影響を強く受けたのか・・、そんな事まで分かってきます。更には自分の将来の病気や怪我を予測・対処する事だって不可能ではありません。
この家系譜作り、作れるタイミングというのがあって、オジやオバが居なくなると困難を極めます。我が家の場合にも苦労しました。父も母も超晩婚だっただけに調べるのに手間が掛かりました。
我が家の家系譜作り、まだ完成した訳ではありません。否、完成なんて永遠にありません。我が親族にも日々召される者あれば誕生する者ありです。【母に生命を返す時】だって立派な家系譜かも・・。
☆我が国の政治家よ、よく聞け!。
でも、理論的に言えば絶えるはずがないヒトの世ですが、自然の移ろいの中で政治や経済のカラクリが自然を操作し過ぎると自ずと絶えるのがヒトの世でもあるんです。
見てご覧なさい、この少子高齢化の見事な逆バランス型を・・。これが人間社会の正常な自然の営みの結果だと言えますか?。
子供を生むべくしてこの世に生を受けた女性が、産みたいのに生めない世の中。生む前に自分が飢えないようにと子供を始末しなければならないような事態を容易に引き起こさせる世・・。
その一方、まるでモルモット扱いをするかのように新薬を開発して老人に投与してはその成果を競う世・・。
生むはずの子供を始末しなければいけない若者達の集団を横目に見て、ある意味では、「もう、十分に生きたお年寄り」を更に中途半端に生かせ続けては医療ビジネスの対象とするかのような医療行政の姿。
老人を商品にせんが為、医者や介護事業所にビジネスを展開させんが為に意図的に高齢化社会を作り出しているような気がしないでもありません。
親子でも孫子でもない老人と若者が触れ合う・・、その姿は美しくはあります。しかし、若者はその事で生計を立て、嫁を貰っては家庭を持つというというビジョンを果たしてどこまで描き続ける事ができるのかは疑問。
言葉を変えれば、老人のションベンの始末していて国民総生産が上がるはずがないのに・・。
第一、これからという若者に老人のションベンの始末しながら夢を見ろという政治家の心が分からない。この老人介護の問題こそが日本人が日本の伝統と文化を思い出す最良の機会だと何故思わないんだ、と言いたいんです。
国力をつけるのに不可欠な若者のパワーを老人介護ビジネスにばかり引き摺り込んでいては肉や魚どころか野菜や米さえも作れない、買う金さえないニッポンになってしまいそう・・。
ミサイル開発で脅しを掛ける北朝鮮に対し、拉致問題絡みで強気になれない我がニッポン。本来なら北朝鮮の上空を3回グルグルと輪を描いて飛び回り、アッカンベーをして戻ってくる程の技術を持っているはずの我がニッポン。しかしながら、既に北朝鮮には200基のノドンミサイルが我がニッポンに向けて実戦配備されていて、このニッポンは王手を掛けられているんです。
今回、看護の世界にインドネシアの若者を導入しようという計画がありますね。3ヵ年の期間中に日本国内の看護師試験に日本語で解答して合格しなければ本国へ強制送還するという政策。政治家諸君、そのような高慢な姿勢でいいのでしょうか?。
近い将来、「日本で老人の世話をしてください。お願いですから・・」、と土下座をして頼み込む事態にならなければいいのですが・・。
若者に家族を与え、十分な生活を与え、そこに優しい心を芽生えさせ・・、お年寄りと孫が一緒に遊べる家を与えるような政策こそが望まれるているような気がします。付け焼刃、点滴政治はもう止めて、人間をもっと解放させてあげたいと思います。誕生から老い、そして死までの過程を必要以上に操作すべきではない考えます。
この件、私には譲れない理屈があるんです。次回はつまらないボケ老人の集団である全国の団地の自治会の在り方について書いてみたいと思います。
♪:弥生の頃
どう?・散歩でも出かけましょうか 頬伝う風は冷たいかしら
そろそろ・桜も峠を越える頃 弥生の月は今日まで・・
貴女は覚えているかしら 佐世保を発つ日の車から見た景色
山には一筋・枝垂れ桜の帯 そう・あれも弥生の頃
お前の・手を貸しておくれ そして・窓辺に立たせておくれ
お前に伝えたい事がある 風にあたりながらでも・・
もう・私は独りじゃ何もできない ここでお前と暮らしたいもの
ようやく私は・心を決めたよ・と そう・母が言う
もう・私は独りじゃ暮らせない このままここに居させておくれ
こんなに穏やかな一日なのに 母の迎える春は・哀しい
そう・幾つもの春を迎えた母のはず 今は・弥生の頃 そう・弥生の頃
お前に・あの空が見えるよね 私には全てが雲って見える
この時期・春霞がひどいからねと 私は言葉を詰まらせる・・
ちょっと庭に出てみましょうよ 言葉を掛けましょうか花ミズキに
今年はお前が咲くのを・見てやれるよと そう・今は弥生の頃
「家系譜を書き残しなさい」、とよく言う人がいます。信心深い人なんでしょうね。恥ずかしい話ですが、家計簿は知っていても家系譜なんて言葉は父親が死ぬまで知りませんでしたよ。
源頼朝が誰と誰の間に生まれ、父方には誰々が・・、母方のオジには誰々が・・、というそんな事を書き記したもの。家系譜とはその[我が家版]という奴で、どこの家庭にもあった方がいい。なければ作っておきなさい。それが先祖供養になるし、自分の存在を末裔にまで知らしめる事にもなると・・、そういう教えなんです。
確かに、家系譜って作っていく内にいろんな事を教えてくれます。作るには、自分の孫や子から作り始めるがいいようです。長崎の姉の場合だと、ユウヤ&ケンタという孫が居て、父は倉地ヒデオ+母・ノブコ。ノブコの父は横内ヒロシ+母・ヒロコ・・、みたいな書き順です。
これを上から辿ろうとすると大変。オジやオバに電話をして、「貴女には何人の兄弟が居て、それぞれの子は・・孫の名は?」、なんて聞いても絶対にどこかでズレてきます。第一、私の場合にはオジやオバが殆ど存命していません。事前に兄弟、従兄弟にそれぞれの家系譜作りを依頼し、それを集め合せる方法がいいと思います。これ、絶対にやったがいい。それも早ければ早いほど楽です。
そうやっていると自分の性格や体質、趣味までが誰の影響を強く受けたのか・・、そんな事まで分かってきます。更には自分の将来の病気や怪我を予測・対処する事だって不可能ではありません。
この家系譜作り、作れるタイミングというのがあって、オジやオバが居なくなると困難を極めます。我が家の場合にも苦労しました。父も母も超晩婚だっただけに調べるのに手間が掛かりました。
我が家の家系譜作り、まだ完成した訳ではありません。否、完成なんて永遠にありません。我が親族にも日々召される者あれば誕生する者ありです。【母に生命を返す時】だって立派な家系譜かも・・。
☆我が国の政治家よ、よく聞け!。
でも、理論的に言えば絶えるはずがないヒトの世ですが、自然の移ろいの中で政治や経済のカラクリが自然を操作し過ぎると自ずと絶えるのがヒトの世でもあるんです。
見てご覧なさい、この少子高齢化の見事な逆バランス型を・・。これが人間社会の正常な自然の営みの結果だと言えますか?。
子供を生むべくしてこの世に生を受けた女性が、産みたいのに生めない世の中。生む前に自分が飢えないようにと子供を始末しなければならないような事態を容易に引き起こさせる世・・。
その一方、まるでモルモット扱いをするかのように新薬を開発して老人に投与してはその成果を競う世・・。
生むはずの子供を始末しなければいけない若者達の集団を横目に見て、ある意味では、「もう、十分に生きたお年寄り」を更に中途半端に生かせ続けては医療ビジネスの対象とするかのような医療行政の姿。
老人を商品にせんが為、医者や介護事業所にビジネスを展開させんが為に意図的に高齢化社会を作り出しているような気がしないでもありません。
親子でも孫子でもない老人と若者が触れ合う・・、その姿は美しくはあります。しかし、若者はその事で生計を立て、嫁を貰っては家庭を持つというというビジョンを果たしてどこまで描き続ける事ができるのかは疑問。
言葉を変えれば、老人のションベンの始末していて国民総生産が上がるはずがないのに・・。
第一、これからという若者に老人のションベンの始末しながら夢を見ろという政治家の心が分からない。この老人介護の問題こそが日本人が日本の伝統と文化を思い出す最良の機会だと何故思わないんだ、と言いたいんです。
国力をつけるのに不可欠な若者のパワーを老人介護ビジネスにばかり引き摺り込んでいては肉や魚どころか野菜や米さえも作れない、買う金さえないニッポンになってしまいそう・・。
ミサイル開発で脅しを掛ける北朝鮮に対し、拉致問題絡みで強気になれない我がニッポン。本来なら北朝鮮の上空を3回グルグルと輪を描いて飛び回り、アッカンベーをして戻ってくる程の技術を持っているはずの我がニッポン。しかしながら、既に北朝鮮には200基のノドンミサイルが我がニッポンに向けて実戦配備されていて、このニッポンは王手を掛けられているんです。
今回、看護の世界にインドネシアの若者を導入しようという計画がありますね。3ヵ年の期間中に日本国内の看護師試験に日本語で解答して合格しなければ本国へ強制送還するという政策。政治家諸君、そのような高慢な姿勢でいいのでしょうか?。
近い将来、「日本で老人の世話をしてください。お願いですから・・」、と土下座をして頼み込む事態にならなければいいのですが・・。
若者に家族を与え、十分な生活を与え、そこに優しい心を芽生えさせ・・、お年寄りと孫が一緒に遊べる家を与えるような政策こそが望まれるているような気がします。付け焼刃、点滴政治はもう止めて、人間をもっと解放させてあげたいと思います。誕生から老い、そして死までの過程を必要以上に操作すべきではない考えます。
この件、私には譲れない理屈があるんです。次回はつまらないボケ老人の集団である全国の団地の自治会の在り方について書いてみたいと思います。
♪:弥生の頃
どう?・散歩でも出かけましょうか 頬伝う風は冷たいかしら
そろそろ・桜も峠を越える頃 弥生の月は今日まで・・
貴女は覚えているかしら 佐世保を発つ日の車から見た景色
山には一筋・枝垂れ桜の帯 そう・あれも弥生の頃
お前の・手を貸しておくれ そして・窓辺に立たせておくれ
お前に伝えたい事がある 風にあたりながらでも・・
もう・私は独りじゃ何もできない ここでお前と暮らしたいもの
ようやく私は・心を決めたよ・と そう・母が言う
もう・私は独りじゃ暮らせない このままここに居させておくれ
こんなに穏やかな一日なのに 母の迎える春は・哀しい
そう・幾つもの春を迎えた母のはず 今は・弥生の頃 そう・弥生の頃
お前に・あの空が見えるよね 私には全てが雲って見える
この時期・春霞がひどいからねと 私は言葉を詰まらせる・・
ちょっと庭に出てみましょうよ 言葉を掛けましょうか花ミズキに
今年はお前が咲くのを・見てやれるよと そう・今は弥生の頃
2009年04月28日
♪:同居記録:198
☆2009.4.24。どこからあんなに大量の尿が・・。
ちょっと最近、心疲れる事が多く、ブログ記事を書くのが停滞気味。
最近の母は帰宅しても横になろうとせず、僅かな時間でも私のそばにいようとします。まるで眠ってしまったら二度と目が覚めないかのような気がするかのように・・、自分に遣り残した事があるのではないかのようにいろんなモノゴトに拘るようになっています。妙に心焦っているようです。
それに僅かですが言葉使いにも凶暴性に近いものが出始めています。母の一挙手i一投足が転倒に関わるだけにこっちとしても短気を起こすわけにもいかず、説得する努力をするのですが、母の場合はそうした心理を敏感に察知し、まるでからかうかのような言動に繋げてしまう特徴があるんです。
例えば、「倒れるって・・、こんな事をいうのかい」、と走り出そうとしたり、「あんた達はよくもそこまで私の事を馬鹿にできるもんだね」、と××○×▽!!、と真夜中だろうが叫び散らします。
些細な事から始まる例もあります。オシッコをしたら拭く、拭いたら手を洗う、洗ったら中敷(尿取りパッド)を当てる(当ててもらう)、トイレを出る前に照明を消す。この中で現在の母が間違いなくできることは照明を消す事だけ・・。私達が動作を指示して始めて気づくようです。
多分、今の母には尿意がなく、尿取りパッドの湿り感だけを感じてトイレの行く必要を始めて感じるんだろうと思います。
例の尿取りパッド(中敷)には赤や朱色のズレ止め防止のシールがありますよね?。あれを剥がしてからパッドを装着するのですが、先日、そのシールを1回毎に棄てずに土曜のデイ帰宅時から日曜の同時刻に掛けての24時間の間に集めてみたんです。何とその枚数は26枚。パッドは交換する度に大量の尿を吸収していましたから、母の身体のどこからそのような水分が出るんだろうと驚いています。
♪:蜃気楼
ちょっと最近、心疲れる事が多く、ブログ記事を書くのが停滞気味。
最近の母は帰宅しても横になろうとせず、僅かな時間でも私のそばにいようとします。まるで眠ってしまったら二度と目が覚めないかのような気がするかのように・・、自分に遣り残した事があるのではないかのようにいろんなモノゴトに拘るようになっています。妙に心焦っているようです。
それに僅かですが言葉使いにも凶暴性に近いものが出始めています。母の一挙手i一投足が転倒に関わるだけにこっちとしても短気を起こすわけにもいかず、説得する努力をするのですが、母の場合はそうした心理を敏感に察知し、まるでからかうかのような言動に繋げてしまう特徴があるんです。
例えば、「倒れるって・・、こんな事をいうのかい」、と走り出そうとしたり、「あんた達はよくもそこまで私の事を馬鹿にできるもんだね」、と××○×▽!!、と真夜中だろうが叫び散らします。
些細な事から始まる例もあります。オシッコをしたら拭く、拭いたら手を洗う、洗ったら中敷(尿取りパッド)を当てる(当ててもらう)、トイレを出る前に照明を消す。この中で現在の母が間違いなくできることは照明を消す事だけ・・。私達が動作を指示して始めて気づくようです。
多分、今の母には尿意がなく、尿取りパッドの湿り感だけを感じてトイレの行く必要を始めて感じるんだろうと思います。
例の尿取りパッド(中敷)には赤や朱色のズレ止め防止のシールがありますよね?。あれを剥がしてからパッドを装着するのですが、先日、そのシールを1回毎に棄てずに土曜のデイ帰宅時から日曜の同時刻に掛けての24時間の間に集めてみたんです。何とその枚数は26枚。パッドは交換する度に大量の尿を吸収していましたから、母の身体のどこからそのような水分が出るんだろうと驚いています。
♪:蜃気楼
2009年04月29日
♪:同居記録:199
☆2009.4.25。白内障の手術時のレンズが単焦点用・・!
母の目。知り合いの眼科に尋ねてみました。「こんな例は少ないのですが、その例を言いましょう」、と答えてくれました。
「白内障は老人のものだけではなく、若い人にも多いもので、手術の際には必ずその人の職業や生活上の都合を聞いた上で行う」、という事でした。つまり、多焦点レンズを埋め込むか、単焦点レンズにするかということです。白内障用のレンズには4種類程度があるそうなんです。ただ、それらが全ての白内障患者に適合するとは限らないとか・・。
母は、「見えない見えない」、という割に、実に遠くの飛行機や鳥を見つけるのが早いんです。母が見えないのは1.2m四方程度。この範囲から距離を伸ばす毎に私よりもよく見えているんです。但し、見えているモノでも歪みは入っているようですが、ここでは触れません。
その眼科医が言います。
「非常に珍しい事だが、あんたのお母様の目には深くは考えずに単に単焦点レンズが埋められたのではないか」、「背中が曲がる程の高齢、車を運転する訳でもなく、TV鑑賞程度が日常の楽しみではあったとしても、・・もし、遠くの山や空を飛ぶ飛行機や星空などを見るのが好きなロマンティックなお年寄りあれば、多焦点レンズを埋め込むべきだったと・・」、と。そして、「目を軽んじてはいかんですよ。耳とは違って、目から入る情報は自分自身そのもので嘘をつかない」、と。
単焦点レンズとは、「ビルの並びや山々の美しい風景は見えても、目の前のバス停の時刻表が見えない」、と言います。だから通常生活で新聞や雑誌を読む場合、老眼鏡を使う必要がある。認知のないご老人であれば問題ないが、認知があるご老人が見えなくなる度に老眼教を思いつくだろうか?。老眼鏡の存在そのものを忘れてしまうものではないか?」、と言い、「あんたの家族は思慮に欠けた集まりとしか思えない」、と怒るのです。「どうして、そこまで考えてやらなかったんだ」、と。
対して、多焦点レンズというものは、遠くも近くも見えるというレンズの事。老眼鏡の使用の必要がなく、認知があろうが始まろうが、そんな事態などは考える必要がない「タイプのレンズです。
但し、この優れた多焦点レンズの場合には保険が使えず、片眼で¥30万程度。この眼科医は、「俺が儲かるわけではないが、一般的に言って年金も十分に貰えて、既に片眼を失った母親であれば尚更に家族には多焦点レンズを依頼して欲しかった」、と言います。
しかし、稀に、「どうせお袋はそんなに長生きはしない。認知って何の事だ?」、みたいな表情で、「安いレンズで構わん」、と簡単に言ってのける家族がいると言います。
つまり、母の場合、手術を勧め、手術に立ち会った息子夫婦と母親。その息子夫婦と眼科医とのカウンセリングが良好ではなかったのではないかと言うのです。医者がいい加減だったのか、兄夫婦が思慮に欠けたのか・・。
手術前の大事な聞き取りでは家族側がが、「母は星を見たり、遠くの山々を見るのが大好きですから・・」、と希望を出す事が確かにある、と言います。しかし、「星を見て暮らす訳じゃなし、人間の一日の生活時間の多くは2~3mの視力の範囲で暮らしているはずだ。ましてや、高齢であればある程にそうだ。何が空だ、何が星だ」、と眼科医は断言します。「星がみたけりゃ、手術した目に双眼鏡を使わせればいいじゃないか」、と。
そして、「あんたの母親には100%間違いなく単焦点レンズが使われている」、と言います。
「頻繁に転倒を繰返すのは近くが見えていないんだよ。お母さんにはあんたが作ってあげた近くの手すりが見えてなくて、もっと遠くの壁が見えていて、お母さんはその壁に手をつこうとしていつも倒れるんだ。何て馬鹿な手術を受けたんだ」、と怒るんです。・・私は悲しくなりました。
手術当時の事を手術に立ち会った兄夫婦に聞いても、「憶えていない」、とか・・。私に多いに不満がないはずがありません。
母が哀れです。母には単焦点レンズが入っているんです。
更に、悔しいのは、右目にレンズを入れる手術だけなら兎も角、母の左目はこの白内障手術の10数年前に起きた眼底出血の際のレーザー手術で視力を失っているのですが、何故か、この既に失明している左の目にもレンズが埋め込まれたのです。
私は、「何故、見えない目にまでレンズを入れたんだ」、と思いました。
知合いの眼科医は、「それは点数稼ぎ以外は考えられない。見えない目にレンズを埋めて何になる。メスを入れる分だけ可哀想だ」、という返事。
「何故、その左目の手術について説明を求めなかったんだ」、と。
「手術に際して医者との言い争いか、医師が投げやりになるような事があったのではないか。それとも、医師側が、『これは儲かる』、と思わせる様子を見せたのかも知れない」、「医者は選ぶ時代だよ」、と言うのです。
私に言わせれば、「取り返しのきかないものは仕方がない。でも、母の人生が考えの浅い家族と眼科医に軽んじられたようで悔しく、哀れじゃないか・・。
96歳だからとは思いたくない母の相次ぐ転倒・・。勿論、目のせいだけとは思わない。ただ、兄にもう少し母の人生を思う余裕があれば、母がこんなに苦しむ姿を見ずに済むのにと悲しくなるんです。
元眼科に勤めた経験のあるKさん!。私の悔しさが分かりますか?。
♪:命の重さ
母の目。知り合いの眼科に尋ねてみました。「こんな例は少ないのですが、その例を言いましょう」、と答えてくれました。
「白内障は老人のものだけではなく、若い人にも多いもので、手術の際には必ずその人の職業や生活上の都合を聞いた上で行う」、という事でした。つまり、多焦点レンズを埋め込むか、単焦点レンズにするかということです。白内障用のレンズには4種類程度があるそうなんです。ただ、それらが全ての白内障患者に適合するとは限らないとか・・。
母は、「見えない見えない」、という割に、実に遠くの飛行機や鳥を見つけるのが早いんです。母が見えないのは1.2m四方程度。この範囲から距離を伸ばす毎に私よりもよく見えているんです。但し、見えているモノでも歪みは入っているようですが、ここでは触れません。
その眼科医が言います。
「非常に珍しい事だが、あんたのお母様の目には深くは考えずに単に単焦点レンズが埋められたのではないか」、「背中が曲がる程の高齢、車を運転する訳でもなく、TV鑑賞程度が日常の楽しみではあったとしても、・・もし、遠くの山や空を飛ぶ飛行機や星空などを見るのが好きなロマンティックなお年寄りあれば、多焦点レンズを埋め込むべきだったと・・」、と。そして、「目を軽んじてはいかんですよ。耳とは違って、目から入る情報は自分自身そのもので嘘をつかない」、と。
単焦点レンズとは、「ビルの並びや山々の美しい風景は見えても、目の前のバス停の時刻表が見えない」、と言います。だから通常生活で新聞や雑誌を読む場合、老眼鏡を使う必要がある。認知のないご老人であれば問題ないが、認知があるご老人が見えなくなる度に老眼教を思いつくだろうか?。老眼鏡の存在そのものを忘れてしまうものではないか?」、と言い、「あんたの家族は思慮に欠けた集まりとしか思えない」、と怒るのです。「どうして、そこまで考えてやらなかったんだ」、と。
対して、多焦点レンズというものは、遠くも近くも見えるというレンズの事。老眼鏡の使用の必要がなく、認知があろうが始まろうが、そんな事態などは考える必要がない「タイプのレンズです。
但し、この優れた多焦点レンズの場合には保険が使えず、片眼で¥30万程度。この眼科医は、「俺が儲かるわけではないが、一般的に言って年金も十分に貰えて、既に片眼を失った母親であれば尚更に家族には多焦点レンズを依頼して欲しかった」、と言います。
しかし、稀に、「どうせお袋はそんなに長生きはしない。認知って何の事だ?」、みたいな表情で、「安いレンズで構わん」、と簡単に言ってのける家族がいると言います。
つまり、母の場合、手術を勧め、手術に立ち会った息子夫婦と母親。その息子夫婦と眼科医とのカウンセリングが良好ではなかったのではないかと言うのです。医者がいい加減だったのか、兄夫婦が思慮に欠けたのか・・。
手術前の大事な聞き取りでは家族側がが、「母は星を見たり、遠くの山々を見るのが大好きですから・・」、と希望を出す事が確かにある、と言います。しかし、「星を見て暮らす訳じゃなし、人間の一日の生活時間の多くは2~3mの視力の範囲で暮らしているはずだ。ましてや、高齢であればある程にそうだ。何が空だ、何が星だ」、と眼科医は断言します。「星がみたけりゃ、手術した目に双眼鏡を使わせればいいじゃないか」、と。
そして、「あんたの母親には100%間違いなく単焦点レンズが使われている」、と言います。
「頻繁に転倒を繰返すのは近くが見えていないんだよ。お母さんにはあんたが作ってあげた近くの手すりが見えてなくて、もっと遠くの壁が見えていて、お母さんはその壁に手をつこうとしていつも倒れるんだ。何て馬鹿な手術を受けたんだ」、と怒るんです。・・私は悲しくなりました。
手術当時の事を手術に立ち会った兄夫婦に聞いても、「憶えていない」、とか・・。私に多いに不満がないはずがありません。
母が哀れです。母には単焦点レンズが入っているんです。
更に、悔しいのは、右目にレンズを入れる手術だけなら兎も角、母の左目はこの白内障手術の10数年前に起きた眼底出血の際のレーザー手術で視力を失っているのですが、何故か、この既に失明している左の目にもレンズが埋め込まれたのです。
私は、「何故、見えない目にまでレンズを入れたんだ」、と思いました。
知合いの眼科医は、「それは点数稼ぎ以外は考えられない。見えない目にレンズを埋めて何になる。メスを入れる分だけ可哀想だ」、という返事。
「何故、その左目の手術について説明を求めなかったんだ」、と。
「手術に際して医者との言い争いか、医師が投げやりになるような事があったのではないか。それとも、医師側が、『これは儲かる』、と思わせる様子を見せたのかも知れない」、「医者は選ぶ時代だよ」、と言うのです。
私に言わせれば、「取り返しのきかないものは仕方がない。でも、母の人生が考えの浅い家族と眼科医に軽んじられたようで悔しく、哀れじゃないか・・。
96歳だからとは思いたくない母の相次ぐ転倒・・。勿論、目のせいだけとは思わない。ただ、兄にもう少し母の人生を思う余裕があれば、母がこんなに苦しむ姿を見ずに済むのにと悲しくなるんです。
元眼科に勤めた経験のあるKさん!。私の悔しさが分かりますか?。
♪:命の重さ
2009年04月30日
♪:同居記録:200
☆2009.4.26。「お父チャマの帰りが遅いネ。傘を持って迎えに行こうか?」、と母。
「・尚宏、お父チャマの帰りが遅いよネ。雨が降って来たというのに困らんものかね」、と言います。
「お父チャマって・・、利三郎さんの事ね?」、と聞くと、「そうよ」、と当然のように言います。
そして、「あんたは父親の事をそんな言い方をするもんじゃない」、と・・。
「傘でも持って迎えに行くのが当り前だ」、と私に言うのです。
「これまではお父チャマの帰りは早かったけどネー。急によね。ここんところずっと遅くなったよね」、と。
・・、母はこの3月中旬からある施設のケアマネとして働き始め、帰宅時間が遅くなりだした嫁の事と佐賀の伊万里市に暮らした頃の炭鉱時代の自分の亭主(私の父)とを間違えているんです。
「傘を持って迎えに行きなさい」、と言うんです。私の幼い頃にはよくやっていた事ではありますが、流石に今は亡き人にはそれも出来ません。
「あのさ、利三郎さんは32年くらい前に亡くなって今はいないさ。何を勘違いしとるのさ」、と私が言うと、「・・えっ」、と言ったきり絶句。「私は知らない」、と母は言います。
「じゃ、進さんは?、勇さんは・・?」、と言います。「深江の家には義ボーだけかい?」、と母。
「進さんが亡くなったのがいつかは俺は分からんが、勇さんは生きていれば108歳くらいさ。お葬式に出ただろうが」、と私。そして、「利三郎さんだって生きてたら107歳さ」、と言いました。
「あらっ・・・」、と言うなり母は涙を流すのです。
「知らんのじゃなくて、忘れとるのさ」、と私が言いますが、母は取り乱しています。
「取り敢えずは横になってくれ。俺は朝から洗濯していたヤツを干してくるからさ。静かにしといてくれ」、と言うと、「はい。分かりました」、と母。
この3月から働き始め、朝の7:45には家を出て、帰宅するのは母の尿取りパッドやら主に生活日常品を中心の買い物を済ませてからだから18:30過ぎになります。
今朝も、「今日もいつものお見送りの女の人が居ないね」、と母が言うほどに嫁は毎朝のデイへ出掛ける母を手を振って見送っていました。その嫁の姿がないのも物足りないようです。
だから、最近の母は、「ご飯の支度、ご飯の支度・・」、と事ある毎に言うようになっています。
つまり、この3年は私が夕飯を作っている事を認識していないんです。
そして、涙を拭き終えた母が・・。
「本当に・・、遅いネ。お父チャマは山道の途中で滑って怪我でもしているんじゃないか?」、と。
「尚宏、迎えに行ってやりなさい」、と横になった母が叫んでいます。
こんな日の母は不思議に私を息子と認識しているんです。認識した上で炭鉱から帰って来る父親を迎えにいきなさい、と指示しているんです。でも、その時の私は母にとっては10~11歳くらいの私。
母にすれば、今の我が家の生活パターンというのは佐賀県に暮らした頃を思い出しやすいのです。その頃の母は学校に子供達を、炭鉱に亭主(利三郎)を見送った後、洗濯に掃除に買い物に家計簿つけに、そして夕飯を作る頃に子供達が学校や近所での遊びから家に戻り、最後に父親の帰りを待つ、という生活。母の中でいつの間にか私の嫁が利三郎さんに思えるのだと思うのです。
だから、帰宅した嫁が、「ただ今帰りました」、と母の前を通ってトイレに行っても不思議な顔をする日が多いんです。首を傾げて、「尚宏っ、あの人は誰っ?」、と。
そして、私が作って台所に置いていた料理類を嫁が食卓に並べ始めても、「尚宏っ、ご飯だよってゲイコさんを呼んでおいで」、と・・。嫁が母のそばに座ってもなかなか理解できない日があるんです。
♪:母が泣いた日
「・尚宏、お父チャマの帰りが遅いよネ。雨が降って来たというのに困らんものかね」、と言います。
「お父チャマって・・、利三郎さんの事ね?」、と聞くと、「そうよ」、と当然のように言います。
そして、「あんたは父親の事をそんな言い方をするもんじゃない」、と・・。
「傘でも持って迎えに行くのが当り前だ」、と私に言うのです。
「これまではお父チャマの帰りは早かったけどネー。急によね。ここんところずっと遅くなったよね」、と。
・・、母はこの3月中旬からある施設のケアマネとして働き始め、帰宅時間が遅くなりだした嫁の事と佐賀の伊万里市に暮らした頃の炭鉱時代の自分の亭主(私の父)とを間違えているんです。
「傘を持って迎えに行きなさい」、と言うんです。私の幼い頃にはよくやっていた事ではありますが、流石に今は亡き人にはそれも出来ません。
「あのさ、利三郎さんは32年くらい前に亡くなって今はいないさ。何を勘違いしとるのさ」、と私が言うと、「・・えっ」、と言ったきり絶句。「私は知らない」、と母は言います。
「じゃ、進さんは?、勇さんは・・?」、と言います。「深江の家には義ボーだけかい?」、と母。
「進さんが亡くなったのがいつかは俺は分からんが、勇さんは生きていれば108歳くらいさ。お葬式に出ただろうが」、と私。そして、「利三郎さんだって生きてたら107歳さ」、と言いました。
「あらっ・・・」、と言うなり母は涙を流すのです。
「知らんのじゃなくて、忘れとるのさ」、と私が言いますが、母は取り乱しています。
「取り敢えずは横になってくれ。俺は朝から洗濯していたヤツを干してくるからさ。静かにしといてくれ」、と言うと、「はい。分かりました」、と母。
この3月から働き始め、朝の7:45には家を出て、帰宅するのは母の尿取りパッドやら主に生活日常品を中心の買い物を済ませてからだから18:30過ぎになります。
今朝も、「今日もいつものお見送りの女の人が居ないね」、と母が言うほどに嫁は毎朝のデイへ出掛ける母を手を振って見送っていました。その嫁の姿がないのも物足りないようです。
だから、最近の母は、「ご飯の支度、ご飯の支度・・」、と事ある毎に言うようになっています。
つまり、この3年は私が夕飯を作っている事を認識していないんです。
そして、涙を拭き終えた母が・・。
「本当に・・、遅いネ。お父チャマは山道の途中で滑って怪我でもしているんじゃないか?」、と。
「尚宏、迎えに行ってやりなさい」、と横になった母が叫んでいます。
こんな日の母は不思議に私を息子と認識しているんです。認識した上で炭鉱から帰って来る父親を迎えにいきなさい、と指示しているんです。でも、その時の私は母にとっては10~11歳くらいの私。
母にすれば、今の我が家の生活パターンというのは佐賀県に暮らした頃を思い出しやすいのです。その頃の母は学校に子供達を、炭鉱に亭主(利三郎)を見送った後、洗濯に掃除に買い物に家計簿つけに、そして夕飯を作る頃に子供達が学校や近所での遊びから家に戻り、最後に父親の帰りを待つ、という生活。母の中でいつの間にか私の嫁が利三郎さんに思えるのだと思うのです。
だから、帰宅した嫁が、「ただ今帰りました」、と母の前を通ってトイレに行っても不思議な顔をする日が多いんです。首を傾げて、「尚宏っ、あの人は誰っ?」、と。
そして、私が作って台所に置いていた料理類を嫁が食卓に並べ始めても、「尚宏っ、ご飯だよってゲイコさんを呼んでおいで」、と・・。嫁が母のそばに座ってもなかなか理解できない日があるんです。
♪:母が泣いた日




